宗教とは伝えるものか?
最近、神についての記事を書いたからか(その記事はこちら)、Googleが今ごろやたら大川宏洋氏(Youtube名義:宏洋(ひろし))をお勧めしてくるので暇つぶしに(ネタ探しに)見てみたら、これが結構面白かった。
大川隆法氏が間違っていると私が考える根拠は、私は「神など存在しない、仮に存在していても意味はない」と思っているからである。なぜなら、人生に生きる意味はないと考えているからである。今回はこのくだりを説明する意図はないので、ここは難解だと思うが、スルーしてほしい。とにかく、大川隆法氏は私に言わせれば「普通」なのである。その観点で見れば、宏洋氏の主張は、私にはすんなり理解できるのである。
私も実は若いころ(たしか高校生くらいのころ)、大川隆法氏の著書は読んだことがある。そして今より純粋で無知であったこともあって大いに感銘を受けた。ただ、そのころから「宗教は団体でやるものではない」ということを理解する程度には知恵があったので、さすがに「幸福の科学」などという宗教団体に布施?寄付?入団?する気はなかった。その著書に何が書いてあったかはもうすっかり忘れたが、まだそのころは、大川隆法氏は今ほど「狂気」を帯びていなかったと思う。
宗教というのは科学と対立する概念で、論拠に証拠や証明を必要としない。なぜなら、「信じる」か「信じない」かで決まるからだ。したがって、私は大川隆法氏を信用しないといえば、それで終わりである。宗教とはその程度の意味しかない。
釈迦やキリスト、そしてモハメッド(ムハンマド:彼は文盲であった)も自分の教義を記した書物を残してはいない。仏典や聖書やコーランも、後の世に弟子たちが記憶を頼りに書き記した記録であり、釈迦やキリストが言った意味で書かれているかは疑問である。では、なぜ釈迦やキリストは自らの言葉を書き記さなかったか。それは、言葉は読み手によって意味が変わるからだと思う。「お前はバカだ」という言葉も前後の文脈で全く意味が違ってくる。私も「人生に生きる意味はない」とよく言うが、この言葉に込められた本当の意味を分かってもらえるなんて思ってもいないし、私自身が、この言葉の持つ意味を本当に理解しているかすら怪しいのである。
だからおそらく釈迦もキリストも自分の言葉は前後の文脈をもって伝えられるべきと考えていただろうし、自分の寿命を考えたとき、やがて人類はこの言葉の意味を忘れて、「末法」「ハルマゲドン」を迎えるだろうと発言したのだとしてもまったくおかしいとは思わない。
宗教法人という団体は本質的には営利団体でしかない。
ではなぜ、今の宗教家が本を書くかといえば、「お金」儲けのためである(笑)。「人生に生きる意味はない」と理解し、「人生の意味は自分で決める」と決心したのであれば、宗教を体得するために、人の話を聞く必要はないし、集団を形成する必要はない。ましてや、その集団に属さないと不幸になるなんて発想は絶対に出てこない。なので私は、本当に宗教を持っている人というのは、普通でいえば「無宗教」「無神論者」であることが、必要条件であると考えているのである。「~を信じなさい」「この言葉を『読みなさい』」といった時点で自ら私は偽物であると明言しているようなものだと思うのである。
釈迦が菩提樹の下の瞑想で悟りを開いたとき、初めはその内容を人々に教えようとしなかったと云われている。それは、釈迦が悟った内容を人々に理解させるにはあまりにも難しかったかららしい。しかし、梵天(古代インドで宇宙の創造神とされた)の強い勧めがあって、それより仏の教えが開かれたと云われている。そして、釈迦は後年、秘密の教えとして、「すべては無であり、今見えているものは空(からっぽ)である」と最後の結論を述べるのである。
私はここにこそ釈迦が「人生に生きる意味はない」と悟った証拠があるのだと思っている。それまでみんな「生きるとは何か?きっと意味があるはずだ」と懸命に「修行」して探求していたが、釈迦はそんなもの無いと悟った瞬間、すべての疑問が解けたわけである。すべての煩悩(人生における悩み)が氷解したわけである。だが、この「人生に生きる意味などない」という真理を、何らかの具体的な真理を得ようと一生懸命「修行」している者たちに伝えたところで誰が信じるものか?そんなことより、この真理のすばらしさに酔いしれているほうがましだと考えるのは当然と思うのである。
それでも何とか皆にわかりやすく伝えるため、最初は四則演算のように簡単なルールを教え、それが身についたところで、三角関数や微分積分といった高度な法則を教えるという順序を取ったのだと思う。つまり最初に語られた四則演算にあたる教義は基礎中の基礎でそれ自体にはあまり意味はなく、最後の教えにこそすべてが詰まっているのである。そう考えると、私は釈迦がまさしく「人生には生きる意味はなく、その意味は、自分で作っていくものだ」ということ悟ったに違いないと確信するのである。
このように考えれば、実は宗教という集団、法人は存在するはずがなく、宗教は個人の手元に返還され、とても孤独だが人を選ばない不偏の真理となり、人が存在する限り、永遠に人のそばに寄り添い続ける法灯となりえるのだと思う。
つまり「宗教」とは「無」であり、いかなる形も存在せず、かつ、人間の心に不偏に自在に存在するものであり、お金に換金できるものではないということが言えるのである。もう一度言うが、真の宗教者は普通、「無宗教」「無神論者」と言われる人たちの中にこそ存在すると思うのである。