愛とは何か?
私が考える愛とは、「生きる意味」の一種である。「生きる意味」なのであるから、そんなものはないのであるが、「ないからこそ作る」と言う意味で、「生きる意味」の一種と言えると思っている。
もちろん、例えば野生の動物のようにただ生まれて消えていくだけであれば、愛などなくとも生きていける。したがって、「愛がなければ生きていけない」というものでもないと思う。しかし、一方で、親の愛、兄弟愛、友情、師弟愛、隣人愛に囲まれて、幸せな人生を生きたいと願うことも確かな事実である。愛とはいったい何なのだろうか?
「私は(この人、この物を)愛している」と言う感情は、おそらく動物にもあるが、人間だけがはっきり認識している感情であると思う。動物が持つ育児本能やお互いの舐め合い、毛づくろい、あるいは群れ社会を営むことによる集団防衛本能まで、「野生」のころに培った感情の芽生えが、人間の知性によって、「愛」という結実を迎えたのだろう。
地球上の様々な生物、物質は、「つながり」を持つことによって「強く」なる。生物個体がつながって小集団、村、町、国、世界を形成するとき、そこには「愛」と呼ばれる「人と人をつなぐ」精神作用が存在することは明らかである。その「愛」が本物であるかどうかは関係ない。権謀術数を張り巡らせた策略であったとしても、そんなことを前面に出して社会を構築するわけはないので、見かけ上は必ず「愛」のようなものが存在するはずなのである。
つまり「愛」とは人間同士の接着剤のような働きを持つもので、それによって繋ぎ止められた集団が強くなることを目的として存在する人間の特性であることは間違いがなさそうである。
愛が生きる意味たり得るのはなぜか?
この人間を結び付ける「愛」が生きる意味たり得るのはなぜかというと、本来人間は一人一人、その皮膚の内側に「孤独」を抱えて生きている。したがって、その孤独をいやすものとしての「愛」をできるだけたくさん経験しようとする試みは、人生に十分に価値のある意味をもたらしてくれると考えるからである。
しかし一方、今の世の中と言うのは、「家庭生活」「会社生活」「社会生活(趣味のサークルや地域活動等)」等の生活の分断が行われている。人は、人生の場面場面で「自分」をその場にふさわしい「自分」に切り替えていかねばならず、そうしなければ逆に生きづらいのである。これは人と人のつながりを「分断」することを意味しており、ネットが「匿名」を前提に発展したことにもうかがえる。
つまり、今の時代、人はそれぞれの場面における個人の「プライバシー」が保護されなければならないという点において、「つながり」が十分に純粋なものと言えず、「愛」が未熟な段階であると思うのである。
このような世の中を前提としたうえで「愛」を大切にして生きようとすると、「家庭」を重点的につながりを深めていくことになる人が多いと思う。今の時代、昭和初期のころの地方の村社会にみられたように、「家庭」の垣根を安易に低くすることは、家族が「自由」を失うことを意味することになりかねないからである。
集団の垣根をなくすということは、人々が「人生に生きる意味はない」ということをしっかりと認識して、お互いがお互いを認め合う「自由」の保証がない限り、真の意味で自由で、孤独から解放される社会は成立しない。
かつて日本の村社会が成立したのは、「貧困」ゆえの「絶対的共生体制」が不可欠であったからで、そもそも人生に選択肢が多くない世の中では、「自由」は簡単に踏みにじられる。「村八分」=「死」を意味するような社会では「自由」を犠牲にして人々の愛に頼って生きていくしかないのである。
言い換えれば、村に貢献しなければ村の利益を享受させないという暗黙のルールが存在し、村の長がよほど正義と公平を重んじる人間でなければ、「愛の押し売り」状態が発生し、その村から「自由」が追い出されることになりやすいのである。
そしてやがて経済が発展し、「村八分」≠「死」となる時代が来ると、途端に人間は家の門に「鍵」をかけるようになり、空虚な愛よりも「自由」を大切にするようになったのである。
しかし本当の自由とは「孤独」に近づくことではなく、むしろ「孤独」から解放されることである。本来人類は孤独から解放され自由になり、自由な個人が愛によってつながることによって、強い組織を形成し、「幸せ」に満ちた人生をそれぞれが享受できる世界を作っていくことを人類全体の目的とすべきである。
この意味において、私は「愛」とは「つながり」であり、「愛」とは「人生を生きる意味」の一つであると考えるのであり、それが現代、すぐさま受け入れられないのは、「自由」の侵害が懸念されるからであり、そのことこそが、今の世の中がまだまだレベルが低いと感じる原因でもあるのである。
例えばネット活動が本名でも何の問題もない、誹謗中傷など起こりえないほどに世の中が進化すれば、「愛」はそのまま生きる意味になりえると思うのである。(誹謗中傷に関する記事はこちら。)