読書の意味とは?
私は最近はあまり本を読んでいないが、これまで、教科書、参考書、研究文献、純文学、推理小説、社会小説、ビジネス本、自己啓発本、漫画、エロ本に至るまで、おそらく1000冊に迫る「本」を読んできたと思う。それらの本を読んでどれだけ人生に影響を与えられたかはわからない。いい本もあったし、つまらない本もあった。思い出に残る本もあるし、読んだことすら忘れてしまっている本もある。先日自分の書棚に太宰の「人間失格」が3冊もあるのを見て驚いた。まあ、そんなものである(笑)。
ある精神科医が、本を読んだら、その本のいい点を3つ、悪い点を3つ、ToDo(やるべきこと)を3つ書き出すべきである。と言ってるのを聞いたことがある。3つもできない人はひとつでもいいので何か「アウトプット」すべきであるというわけである。
ネットで読書が意味ないと主張している人も、本を読むだけで何も行動しないなら、読書には何の意味もないという主張が多いように思う。確かに、ただ本を読むだけでは何の意味もないとは言えそうである。
書籍の本質とは?
しかし、本を読んだ直後に、何か脳内に特殊なホルモンが分泌されて、「元気が湧いてくる」ような気分になった経験は、私にもある。したがって、単にそのような麻薬的興奮を得るためだけに「読書」する選択はあると思う。
もちろん、そんな麻薬的快楽は、時間とともに消失してしまうので、結局「何が書いてあったか忘れてしまう」のである。だからこそ、行動を伴わない「読書」なんて無駄だという意見が起こってくるのも当然だと思うが、しかしそれを承知で一時の酩酊状態を楽しむのは別に構わないと思う。
ただ、忘れてはいけない重要な観点は、書籍というのは、ネットの記事のように基本無料ではなく、お金を支払わないと手に入らないということだ。
従って、書籍を購入する場合、せっかくお金を出すのだから、出したお金の価値は回収したいと思うのが人情だ。
もっとも、ネットで得られた情報は、無料であるがゆえに、鵜呑みにせず、自分なりに「検証」が必要になるが、書籍の場合は、お金を支払うので、それなりに著者、発行元の「責任」が生じることになり、ある程度は「信頼できる」情報が得られるというメリットはあるだろう。
しかしその情報というのは、ただ読んだだけでは身につかない。しっかりと読み込んで、自分にとって価値ある情報に昇華しないといけない。それができてこそ、読者は、本代の価値の回収に成功したことになるのである。
私は今まで、価値の回収に大成功した本もあるし、大失敗した本もある。出張時に新幹線の中で読んで、到着駅のゴミ箱に投げ捨てた「詐欺本」もたくさんある。
本にはこのように、自分にとって価値があるかどうかは読んでみなければわからない。いわば、「博打」あるいは「投資」なのである。
読書の価値とは?
私は「書籍」は「値段」をつけずに販売して、読み終わった後に読者が「評価」してお金を払うべきだと思っているが、まあ、絶対にそんな世の中にはならないだろう。したがって、前述のとおり、「本」もある意味投資なのである。当たりはずれは覚悟しなければいけない。だからこそ、精神科医の話や、ネットでの「読書不要論者」の意見にもあるように、「読後処理」が重要になるのだろう。
すなわち、読後感想のまとめと、行動反映による投資の回収行為が重要なのである。どんなにつまらない本でも、その読書体験から何か今後の自分の人生に役立てることはあるはずである。「反面教師」としての役割もあるかもしれない。とにかく転んでもただで起きないように心がければ、「価値の先払い」という「本」への投資もまるっきり無駄にはならないし、つまらない本でなければ、逆に回収は少しも漏らさずしっかりできるであろう。
読書という行為が、このように、「読後処理」を伴うものであり、ましてや読後行動に何らかの影響を及ぼすべきものであるとするなら、単に「多読」であるとか、「速読」であるとかを「自慢」している人たちというのは、何らかの曲芸を披露してお金儲けをする「大道芸人」と何ら変わらないのではないか?
そのような大道芸人的注目を浴びるための読書ではないとすれば、読書の量やスピードなど何のメリットもないと思う。やはり内容をしっかりと読み取り、行動に移す、あるいは今後の人生に生かしてこそ読書は完結するのだ。
読書をしよう、そして人生に役立てよう。それ以外の目的で読書するのはやめよう。時間とお金がもったいないからである。