批判とは何か?
例によってgoo辞書をググってみると、
- 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
- 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
- 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
とある。このように批判とは、「検討したり、修正したりすること」と言えるかもしれない。これが正しいとすると、もし社会の人たちが、もっとその社会をよくしようと考えているのであれば、「批判」とはあちこちで日常茶飯事行われてもいいし、また、その批判を「不快」に思うこと自体、思想的に消極的な、活力のない社会と言えると思う。
かつて、日本が戦争に負け、敗戦国の屈辱を味わい、すべてのプライドを失ってしまい、とにかく「偉そうに」することをやめ、黙って「肉体労働」に汗を流すことを「善」として国民全員「思考停止」状態になったのだとしたら、当然、議論を活発にすることは「恥」と感じ、グダグダ言ってる暇があったら働けとばかりに、生きづらい国に向かって機械的な流れ作業の国家運営に基づいて、治安のいい国として、平和ボケした凡庸な人生を強いられる国に成り下がったのかもしれない。
これからの日本のために必要なもの
もしそうなのであれば、これからの日本に求められるのは、活発な議論の醸成である。これまでの思考停止の世の中から脱却し、日本人が「働きづめ」の間に開けられた諸外国との思考力の差を取り戻す作業を行わなければ、経済力などと言う模倣の簡単な能力などすぐに優位性を失い、瞬く間に大国の属国化してしまうと思う。
今こそ明治維新当時のような活発な日本興国の、武力を用いない思想戦争を開始し、日本人が日本人自身の手に、日本国を取り戻さなければいけないのではないか。
すくなくとも、誰かが誰かを「批判」することに「遠慮」があるような機運は、今すぐ取り除くべきである。批判が許されないような世界は、絶対に変わらない。変わらない国の「占領」はいとも簡単だろう。周囲の国は虎視眈々と日本の領土を狙っているかもしれない。
だからこそ、もっと普通に議論を戦わすことができる国にすべきだ。それはおそらく日本が多様化を容認する国へと変容することを意味すると思う。多様性を持つ国は占領しにくい。多様性は、侵略の防御になりうると思うのだ。一致団結は一見強そうに思うが、「思考停止」している限りにおいては、一旦その集団の弱点を見つけると攻略は一瞬なのである。
もっと活発な議論を許す国になり、同時に論争を喧嘩と混同することなく、知的寛容さをもって受け入れ、論破された側の人間に鞭を打つことなく、純粋に「強さ」と「正しさ」を求める体質を備えた国に変貌しなければいけないと思う。
他人を批判することは、他人の人格を否定することではない。逆に他人の人格を尊重することは他人の意見や思想を丸ごと容認することと同意ではないのである。意見は人格とは異なるものである。価値は唯一ではないし、多様な価値が共存する組織は永続する力をもつのである。
誰にも「真実」は簡単に把握できないことを理解できる真の知識人であるからこそ、フェアに意見を戦わせることができるのである。自由平等の本当の意味は、自由に意見を戦わしあえることにあるのであり、自分への批判が、自分への謀反、反逆であるとは理解しないことなのである。理性と感情を区別できる大人の集団と言うことなのである。
「生きる意味」などない。それを知る国になるべきである。生きる意味をそれぞれがしっかりと考え決められる国にするべきである。わけのわからない「空気」を押し付ける国であってはならないと思う。批判は恨みではない。批判されたからと言って、恨みに思うこともないのである。
まずは家庭から、そして会社から、少しずつ実践していくべきであろう。長い間に染み付いた国民の習慣は、そう簡単には変わらないかもしれない。