安楽死の本質とは?
全身の筋肉が動かなくなっていく難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者だった女性(51)に薬物を投与して死なせたとして、嘱託殺人の疑いで医師2人が京都府警に逮捕された。一部政治家などからは、安楽死や尊厳死の法整備論議を求める声も出ているが、生命倫理や死生学を専門とする安藤泰至・鳥取大医学部准教授(59)は、「治療を担当してもいない患者を殺すのは、安楽死ではない」と述べ、今回の事件を安楽死の是非についての議論に結びつけることに懸念を示す。【大迫麻記子/統合デジタル取材センター】
最近上記のニュースが世間をにぎわしている。私もこの事件は、この医師たちが「安楽死」を行ったとは考えない。私も今回の事件を安楽死の是非についての議論に結びつけることには反対で、この2人の医師たちは嘱託殺人の犯人であると考える。
しかし、そもそも安楽死とは何なのだろうか?
Wikipediaによると、「人または動物に苦痛を与えずに死に至らせることである。一般的に、終末期患者に対する医療上の処遇を意味して表現される。」ということらしい。私は安楽死の根本の問題は、そもそも安楽死をさせるという行為が、仮に医療行為であるとしても、受け取った報酬は、正当な治療(サービス)の対価といえるか、ということだと思う。普通、治療なら、行為に過失があった場合、損害賠償という制度も保証されている。しかし、安楽死の場合、遺族が訴えるということは別にしても、事後の本人の意思は確認できないという意味で、本来の損害賠償はできないのである。たとえば「楽になりたいから安楽死を選んだのに死後に地獄に落ちた。だから賠償せよ(もう一度生き返らせて)。」という主張はできないのである。
もちろん、仮にそうであってもかまわないという事前の本人や家族の意思確認があれば安楽死を行ってよいという理屈も成り立つが、患者が安楽死後の「生」について十分な説明を受けていない以上、「約束が違う」という損失は永遠に補填されることはない。
つまり、安楽死とは、本質的に「取り返しのつかない医療行為」であり、その実施の是非基準はどこにあるのかわからないものなのである。
人生を捨てる意味は何か?
私は不治の病に罹ったことはないが、もし自分が不治の病に罹ったときは、安楽死を求めるかもしれない。その気持ちはよくわかる。自分の痛みは薬で抑えて生きていくことはできたとしても、その薬代や治療費のために苦労をかけ、そしてまた看病のために心配をかけ、あるいは親族として私を不憫に思い心を痛めさせることに、耐えがたい苦痛を感じ続けることは、「地獄」の責め苦にも似た経験だろうと思う。
ただ、一応、「人生に生きる意味はない」ことを知っている人間として、やはりどうせ死ぬなら、焦らず最後まで自分の人生を見届けてみようと、すこしは考えてみると思う。普通の人は信じられないだろうが、本気で「人生に生きる意味はない」と思えるようになれば、ある意味、どんな人生も絵空事のように思えるので、せっかくだから最後まで見てから死のうという気も、本気で、あると思うのである。
あまりに想像を絶する事例なので、本当は軽々しく論じるべきではないと思うが、本当に未来に全く希望を失ってしまうような病気と人生があるというだけで、私は神の存在を心の底から信じることはできないし、人生に生きる意味があるとは思えない。もしあるなら、こんな非情な病気はこの世に存在しないはずだと思うのである。
でも、私がもし安楽死を望む人間を目の前にしたとき、「あなたは人生に生きる意味はあると思いますか?」と問うてみたい。「思わない」と答えるのであれば、「では、自分で作ってみたいとは思いませんか?」と問うてみたい。「思わない」と答えるのであれば、「それはなぜですか?」と聞いてみたい。納得する答えを、最後に私に教えてくれと懇願したい。人生に生きる意味は、どんな状況の人生においても、自分で作ることはできるはずだと思いたいのである。
あなたの「弾きたい」を徹底サポート!手軽で、お得で安心なオンラインギターレッスン!THE POCKET