「守破離」の意味とは?
「守破離」とは、日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したもの。日本において芸事の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想で、そのプロセスを「守」「破」「離」の3段階で表している。
- 守:支援のもとに作業を遂行できる(半人前)。 ~ 自律的に作業を遂行できる(1人前)。
- 破:作業を分析し改善・改良できる(1.5人前)。
- 離:新たな知識(技術)を開発できる(創造者)。
であり、また一方で「型があるから型破り、型が無ければ形無し」と言われることもあるらしい。(By Wikipedia)
たしかに、何か興味あることを始める場合、まずは誰でも「教室」に通うことから始めるだろう。そしてほぼ「基礎」を身に着けたころに、何度も同じ作業を繰り返しているうちに、自分なりに「合理化」してやりやすいやり方を見つけていくものかもしれない。そして何度も小さな合理化、自分流を繰り返しているうちに、今までになかった新しい「型」を編み出して、その「芸」を「進化」させていくものかもしれない。
日本にはこの「守破離」のように組織を硬直化させる権威主義を否定するような考え方が古くからあることを、私は誇りに思う。この常に「発展」「改善」の心が身に付いた日本国民が作る製品がかつて世界を席巻したことは当然と思う。同時に、今まさにその心が失われつつあるような状況を心苦しく思うのである。
「守破離」のタイミングとは?
さてこの時、道を進む者は「守」から「破」、「破」から「離」へ移る時期は何時かということに悩むかもしれない。なぜなら「型があるから型破り、型が無ければ形無し」と言われる通り、「自分ごときがまだまだ合理化や新型を開発する段階にはないだろう。その時期を誤れば『形無し』になってしまう」という恐怖心があるからだ。
しかし、道を究めようとする者が、守から破、破から離へ移る時期までも、師匠にお伺いを立てるのは間違っていると思う。「芸」が常に「発展」を目指し「進化」してゆくものであるとするなら、師匠ですら未だ「進化」し続けているはずなのである。であれば、未完の人間に自分の求道の行程のすべてをゆだねるのは間違っているのである。
もっと具体的に言うと、「師匠」というのは一度頂点を極めた人ではあるが、その道筋は彼独自のものであり、ひょっとしたら別ルートでの登頂の道筋もあり得たのである。
もしもその山の登山方法が絶対に一つしかなく、そしてその道筋は誰にでもたどれる簡単なものであるなら、もはやその道筋を見つけた人を「師匠」とあがめる人もいなくなるだろうし、「弟子」になりたいなどと言う人も現れないものである。
だからこそ、道を究めた人は、一回の成功に飽き足らず、別の道筋、あるいは別の山を目指すのであり、「師匠」と呼ばれる人自身もまた、常に挑戦者なのである。したがって、何も一旦弟子になったからと言って、一生師匠について行って全く同じ登山を経験する必要はない。
従って、自分と同じ登山者(挑戦者)に自分のゆくべき道を尋ねるというのは間違っているという理屈になるのである。
では、「守破離」のタイミングはいつにすればいいのかというと、私の考える守破離のタイミングは、自分の「意思」である。
もちろん、「師匠」に付いて勉強している状態で、勝手に「守」を破り、離れていってしまうと「師匠」としても気分が悪い。つまり自分と師匠の間の単純な「人間関係」が悪化することがある。
ただ、「師匠」と呼ばれる人、「その道を究めた人」というのは必ずしも人格者というわけではない。何も行動を起こさなかった人よりは結果を出した人、ということが「保障」されているに過ぎない、その程度の人なのである。
さらに、「師匠」と呼ばれる人の中には、「技は口伝するものではない。見て、体で覚えるものである」とかもっともらしいことを言う人もいる。しかし、よく吟味してみれば、結局は「師匠」と呼ばれているその人に、言語化する能力がなかっただけ、なんてことも往々にしてある。また、理論脳よりも感覚脳が優れている人なので、そのような教育方法しか思いつかないという場合もある。
実際のところ、それまで「匠の技」とされてきた技巧が日本の工業技術の発達により工業製品化された例は枚挙にいとまがない。稀代の技とされた技術も科学の力によって量産されることもあるのである。そのとき、その稀代の技は科学の力によって「陳腐化」してしまうのである。
従って、「弟子」は必要以上に「師匠」に気を遣う必要はない。「教えてくれない」技術など、実は後に陳腐化する技術である可能性は十分にある。
そこで、「弟子」は「師匠」から「盗む」くらいの狡猾さをもって「習い」、やがては「破」そして「離」へと自ら進化してゆかねばならないのである。
その際、自分の師匠の技が自分にとってまだ学ぶ価値のあるものであれば「関係を維持する」必要上から、「従」の姿勢を崩さないようにする必要はあるかもしれない。しかし「師匠」も、上述の通りある面「挑戦者」であるはずなので、そういう意味では将来のその芸の舞台上では「ライバル」になりうる存在なのであるから、「絶対服従」ではないことに留意すべきである。
結局は「自己責任」による自己判断が明暗を分ける。~これからのサラリーマンの生き方~
そして、弟子の立場の人間は、最終的には「自己責任」において、「形無し」にならないように気を付けつつ、「守」から「破」、そして「離」へと自分の歩みを進めていかねばならないのだ。いつの時代においても、どこの世界においても「思考停止」したものが「敗者」になるのである。
私はこのことはこれからのサラリーマンにも当てはまるのではないかと考えている。これまでの家族主義経営、終身雇用制、年功序列の社会形態においては、サラリーマンはいい大学に入ってモラトリアムな学生生活を過ごした後は、いい会社に就職して「師匠」(上司)のいうことをよく聞いて、機嫌を損ねないように暮らしていけば、「死ぬ」ことはなかった。
しかし、日本企業が、もはや家族主義経営、終身雇用制、年功序列を放棄する以上、サラリーマンの上下関係も、芸の師弟関係と同様、将来的には同じ職場の土俵で競い合う「ライバル」になりえるのである。
したがって、日本企業の職場のサラリーマンもこの「守破離」をよくわきまえて、「思考停止」することなく、「自己責任」において自分の技能を磨くべきと思うわけである。
もし、自分の職場が特に技能というようなものを必要としない職場なのであれば、「手に職」をつけて、副業、兼職をしながらその会社に所属することを考えるべきなのであろう。
なぜならそのような職場においては技能が評価されない代わりに、「わけのわからない評価基準」が横行しており、従業員の人間性は無視されやすいからである。
そのような職場を放置しているのは単に経営者の怠慢で、これだけIT化、機械化が進んできた状況下においては、そのような単純作業はロボット化し、従業員はもっと高付加価値の仕事をさせるべきであるからである。
繰り返しになるが、我が国の「守破離」の伝統にある通り、自分が「やりがい」「成長」「進化」を感じられない職は「主たる職業」にすべきではないと思う。副業、兼業を考えるべきである。これからはそんな時代になるだろうと思う。
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