天才の意味するものとは?
『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、「天才(てんさい)とは、天性の才能、生まれつき備わった優れた才能(生まれつき優れた才能を備わった人物)のことである。」とされている。
私はそもそも「才能」の存在を信じないので、この定義には疑問を持っている。(※「才能」に関する記事はこちら。)ただ、天才とは凡才が理解できないほど、凡人離れした技術や思考を持つ人のことであるとはいえるかもしれない。しかし、いくら凡人離れしていようが人間であることには間違いないので、ある種とても偏った能力を持つ人間というのが正しいと思う。どんな天才も「魔法」は使えないのである。
つまり、自分のリソースを利用して広く浅く能力を発揮するのが凡才として、リソースを生かし切れていない人が鈍才(バカ)、リソースを偏って利用して偏った能力を発揮するのが天才と言えると思っている。
もしも、「天性の才能」などというものが存在するなら、生まれつきの不公平が存在することになるが、私はそれはないと思っている。おそらく人間には多少の個体差はあっても、とびぬけてある能力に恵まれるということはなく、凡才がきづかない場面で、天才は能力を磨いていて、それがたまたま同じ土俵で訓練を開始したときに、その能力の開発度合いに明らかな差が生じる場合があるというだけのことだと思っている。ただその個体差を大袈裟に感じてしまうように、我々の心はできているのだろうと思う。
天才は作れないのか?
もし天才が本当に「天」(=「神」)から与えられた不思議な特権なのであれば、「天才」は人間が作り出すことはできないということになる。
しかし私は、今まだ人類が気づいていない、人間の各種能力の開発方法というものが存在していて、その方法を使えば、誰でも「天才」的能力を発揮できるのだと思っている。つまり、もう一度言うがどんな天才も「魔法」は使えないのだ。
その証拠というわけではないが、重い荷物を持ち上げる天才の能力も、フォークリフトの発明によって、その能力は意味がなくなったし、AIの発達により、天才的な計算能力や理論構築能力も意味はなくなりつつある。人間の天才的な能力は、人間の作ったもので代替可能になっていき、そのうち「天才」であることが、それほど凡才にとって意味をなさなくなると思う。
そのうち「天才」はサーカスのピエロのように、単なる見世物でしかなくなる時が来るかもしれない。つまり「天才」と認められれば人生が保証されるというような時代は来なくなるということだ。逆に言うと死んでから「天才」と称される不幸、侮辱もなくなるというわけだ。
そもそも「天才」と言われるような「不公平」がこの世に存在するということはどういうことかである。「天才」に生まれることが「幸福」「正解」「幸運」であるなら、天才に生まれなかったことは「不幸」「不正解」「不運」であり、生きていく意味はないことになる。この場合の「意味はない」ということは、「ないなら作ろう」という意味での「ない」ではなく、もう絶対に獲得できないという意味での「ない」である。
何が言いたいかというと、「神が人間に『才能』を与え、『天才』を作り出す」のであれば、人間には「自由」はなく、自由でない人生を生きる意味は、もう決して存在しないという意味においての、「ない」ということになる。つまり生まれて生きてみて、自分は天才ではないことが分かった時点で、もう自分は天才にはなれないし、神に見捨てられている時点で、生きる意味もなくなるのである。なぜなら、神は何か意味があって天才に才能を与えたはずなので、才能を与えられなかった自分は神から見れば無価値であり、生まれながらにして意味のない存在と言えるからである。
しかし私は「人生には生きる意味などない」と考えているので、「神」など存在せず、その神が人間に与えるという「才能」も存在しないので、いわゆる不可侵的な絶対存在のような、神に選ばれた「天才」などいないと考えるのである。
私にとっての「天才」とは?
言い方を変えれば、私の「天才」に対する感情とは、私こそが「天才」と考えているので他の「天才」を見ても驚かないという感情に似ているかもしれない。
とにかく、今世の中でいわれている「天才」とはいびつな「凡人」のことで、おそらく「再現可能な人間の一種」であり、私にとって、他のたくさんの、「自分とは違う能力、価値観、知能、体力etc…」をもった一人の人間に過ぎないという感覚なのである。
つまり、「天才」は私にとってはサーカスのピエロのごとき存在で、面白がったり、感心したりはするが、別にうらやましくもないしそれほど尊敬もしない。
私は「天才」をみて、妬んだり、嫉んだりすることは間違っていると思っている。そんな人は、人生の意味をきちんと考えていない証拠だ。人生の意味は自分に基づいて自由に作り上げていくものと知っているなら、相手が「天才」でも「バカ」でも、自分にとっては何の意味もないのだ。「他人」は「天才」であろうが「バカ」であろうが「他人」なのである。自分にとって有用であるという部分だけを参考にして、自分の人生の意味付けに役立てていけば、それで十分なのである。
私は他人を目標とせず、自分の心のみを灯として生きていく、そういう生き方こそが真の自由な生き方であり、素直な生き方であると信じているのである。