商売の意味とは?
商売とは通常、利益をあげる目的で物を売り買いすること、または、生活の基盤になっている仕事や職業のことを言う。この、生活の基盤になっている仕事や職業は、そもそも利益を上げる目的で営んでいるので、「利益が上がら」なければ、商売としてはどうしようもない、または失敗である、と言える。
今仮に、自宅で「飴」を作って売る商売を考えてみる。その時、飴を作るには、水と砂糖、電子レンジと作業するキッチン、そして飴を包む包み紙や電気代等、直接間接の様々な材料費がかかるが、もう今の世の中、そのような材料費は厳密に計算しなくても、ざっくり10円でいいだろう。しかしだからといって、一個10円で販売すれば、ほとんどが材料費に消えるので、手元には利益(お金)は残らないことになる。当たり前だが、飴を売って「生活」することなど絶対無理である。
なぜ利益が出ないかというと、この飴を商品にする場合は、10円程度の直接間接の材料費の他に、材料を混ぜ合わせる、飴を成型する、飴をきれいに包む、お客様へお届けするという、自分の働き分の価値(給料)が加わっているのである。この価値を売値に加算しなければ、十分な利益は出ないのだ。当然、自分の生活費も出ないのは当たり前である。
では、この自分の働き分の価値をどう計算するかだが、これは自分がいくらほしいかで、とりあえず、計算してみるしかない。
例えば、自分はこの商売で月20万円稼ぎたいとする。そして、この飴を、自分は月に1,000個作れるとする。そうすれば、一個当たり200円の値段を加えれば、めでたく月20万円稼げる計算になる。つまり先ほどの直接間接の材料費と合わせて一個210円(税抜き)となるのである。
あとは、自分が、砂糖と水だけで電子レンジで作った飴を、1個210円(税抜き)で月に千個買ってくれるお客さんがいるかということである。
今時、機械を使ってさまざまに工夫をこなした飴が市場に大量に出回っており、一個200円以上もする飴なんて誰も買うはずがないと「普通」は思う。だから、誰も自分で飴を作って「商売」しようとは思わないのである。
従って、普通の人は、自分で商売をすることをせず、会社で大量生産の歯車になることを選ぶのだ。
商売のからくりとは?
飴一個の値段は、経済学では市場で決定されるなどという表現をする。しかし、実際に、お客さんが集まって商品一個一個に値付けをしているわけではない。その評価基準は極めてあいまいで、今、おおよそ飴玉なんて一個10円以下でしょ?という「常識」や「流行」があるだけで、その根拠は誰も知らないのである。単なる統計学のデータで、それに権威づけしたい人が「市場価値」とかいうあいまいな尺度を設定してまことしやかに言いふらしているだけなのである。
本当に「商売」に成功する人は、このからくりを知っている人である。飴一個10円以下なんていう「常識」や「流行」を信用せず、一個200円以上する飴でも買いたくなるような、工夫をし、演出をし、宣伝することに成功する人は、きっちり1個200円以上で自作の飴を売り切るのである。
そして本当の商売人は、その「常識」や「流行」というからくりを知っているからこそ、その自作の飴が永遠に売れ続けることはないことも承知しているので、また新しい飴を作り出すし、場合によっては飴以外の「商品」を製作販売して、「商売」を続けるのである。要するに、「商売」人とは新しい価値を生み続ける人のことといえる。それに対して、サラリーマンは同じ価値を再生産し続けるだけなのである。だから「社畜」が発生するわけである。
「普通」の人生の幸せはこの「常識」や「流行」というわけのわからない基準に踊らされることによってのみ、達成される。つまりもし、世の中の普通の人が、1個10円もしない飴に200円以上のお金を払う時は、「真実」を買っているわけではなく、「常識」や「流行」にお金を払っているのである。そしてその行為が、「流行に乗る」という新たな常識の安全地帯に入る喜びをもたらし、結果それを「幸せ」と呼んでいるのである。
つまり「商品」とはほんの少しの「便利さ」や「快適さ」や「満足感」に加え、大いなる「普通」への安心感、「流行に乗る」ことによる他人との共感性をもたらし、生活に「安心」をもたらすものなのである。そして「商売」とは、そのような商品を通じて、ほんの少しの「便利さ」や「快適さ」や「満足感」とともに、「生きる意味」=「『普通』であること」を享受する権利証を、お金と引き換えに普通の人に与える行為なのである。
従って、商売は、「普通」ではない人に対して行うものではない。そんな事すれば、利益は獲得できないのである。普段から単に「普通」を追い求めるのではなく常に本質を見極めることができる「普通」でない人は、商売人向きということができる。
「商売」人が気を付けなければいけないことは、「商売」という「普通」でないことに教科書はないということだ。慎重に計算して大胆に実行しなけれないならない。そして、「人生に生きる意味はない」ことを胸において、決して「普通」の人の意見に惑わされないことである。
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