他人の言葉で傷つくことは誰でもあるが、その傾向が強く、常に憂鬱な気分になる人に提言したい三つの心構えがある。それは次のとおりである。
- 自分は「普通」ではないと自覚すること
- 生きる意味を決めること
- 正しい自己肯定感をもつこと
ひとつづつ説明していきたい。
自分は「普通」ではないと自覚すること
他人が言ったことで傷ついて、腹が立って、悲しくなってどうしようもないことがひどく多い、または、いつまでも引きずって立ち直れない場合、まず、自分は「普通」ではないということを自覚することが大切だと思う。
何か人から言われて苦しんでいる場合、おそらく自分でも「気にしないようにした方がいい」とは思うのである。実際その通り、そのことを他人に相談すると「気にしない方がいい」と言われるのである。
つまり「普通」は他人から何を言われようと気にせず生きていくものだし、むしろ他人の言葉になんか耳を貸さない人の方が「普通」なのである。「普通」は、「人は人、自分は自分」と思えるのである。
しかし過敏な人は、人から言われた一言を引きずってしまったりする。普通は一晩寝れば忘れるのだが、たまに寝ても覚めても忘れられない人がいる。
そしてそんな人は「自分は普通のはずなのに、なんでこんなに悩んでしまうんだろう」とさらに自分を貶めてしまうのである。こうして、本来、普通の状態になりたい、もしくは戻りたいはずなのに、さらに自己嫌悪の泥沼に落ち込んでしまうのだ。
そういう人、もしくはそういう時は、自分は「普通」ではない、または「普通の状態ではない」ことを自覚すべきである。普通でないことを自覚することから始めるべきで、また同時に「普通」でないことを恥じることはないのである。「普通」より少し敏感なので、ちょっと悩みが多いだけだと、まずは自分の今の状態をしっかりと把握することから始めないと、自己嫌悪の堂々巡りを繰り返すばかりで、すこしも悩みから脱出できなくなってしまうのである。
まずは冷静になって、自分の欠点の泥沼から抜け出すために踏ん張ることから始めなければいけないのである。
生きる意味を決めること
「普通」ではないことを自覚できたら、次にすることは、「生きる意味」を自分で決めることである。普通は「生きる意味」なんて考えず、ただ、「普通」に生きているだけである。だからこそ、他人のいうことも気にせず、自分なりに生きていけるのだが、他人の言うことが気になりすぎる人は「生きる意味」を自分で決めた方がいいのである。
他人の言うことが気になるということは、言い換えれば「ひょっとしたら、自分は生き方を間違えているかもしれない」と思うからであって、「そうはいっても、自分はこのようにしか生きられないのにどうすればいいんだ。あいつは私を苦しめる悪い奴だ」と思うから腹が立つのである。
自分の「生きる意味」はここにあるのだとしっかり定義し、実行していれば、そもそも自分の考え方と全く違う人の意見など気にならないし、相手が自分をバカにしてきても腹も立たないのである。
これは、例えば自分が野球が得意で野球ではそこそこ成績が残せている場合、力士にちょっとくらい相撲が下手なことをバカにされても腹が立たないことに似ている。もともと「土俵」が違うのだから勝負にならないし、もし相手の力士もそこそこ成績を残している選手であれば「冗談」であることくらいわかるはずなのである。逆に相撲を始めたばかりの初心者が、自分を本気でバカにしても、あほらしくて相手にする気もないだろう。
このように「生きる意味」を決めるということは、ある意味、自分に自信を持つことに似ている。
本来、人のいうことに左右されやすい人っていうのは、山にでも籠って仙人のような生活をするしかない。そもそも他人と交わることがなければ、他人に傷つけられるなんてことは起こりえないのだ。
しかし、今の世の中、そんなことは不可能なので、集団生活を強いられる。したがって、普通は「他人は気にしない」という「思考停止」で生きていくのだが、それができない敏感な人は、「仙人になれる場所」を作るしかないのである。
わかりやすく言うと、「趣味」の世界がそれである。それもできるだけ一人でできる「趣味」がいい。仮にプラモデル作りを趣味とする場合を考えてみると、そのような趣味の世界を持つ人は、それ以外の部分で誰かに何かを言われても、そこへ「逃げ込む」ことができる。したがってそう簡単に他人の言うことに惑わされることがない。
人生逃げてはいけないというのは普通の思考停止のいい加減人生を送ることができる人の考え方で、普通でない人は、「普通」から逃げる場所は絶対に必要になる。だからこそ、自分は「普通」かそうでないかの自覚は大変重要になるのである。(趣味についての記事はこちら。)
それがあってこそ、気にしている人に気にしなくていいなんて言う思考停止型のアドバイスができる「普通」の人たちの狂言にも耐えられるのである。普通でない人は、普通から逃げないと生きていけないので、「逃げること」=「悪いこと」という思考停止型の常時戦闘モードの普通人間の考え方から脱却する必要があるのだ。
そして、趣味とは「いきがい」になりえる。「生きる意味」をみつけるというと、かなりしんどいことのように思えるが、実際のところ、「趣味」に生きることが、「生きる意味」になったりするのである。なにか「生きがい」を見つけることだ。そして「趣味」は「息抜き」になりえる。
趣味を現実逃避としてバカにし、仕事が生きがいという普通の人は、仕事をしないとき何をしているかというと、家でソファに寝転がってテレビを見ながら酒を飲んでいる、あるいは、バーやキャバクラで若い女性と痴話話に花を咲かせているなんていう「暇つぶし」をしてるだけである。趣味を持つ人は、そのように「仕事が生きがい」という普通の人たちの「暇つぶし」の時間を使って「趣味」をしているだけなので、趣味は「逃げ」にはならないし、趣味が逃げなら、仕事が生きがいの人が酒に逃げていることも「逃げ」になるのである。
正しい自己肯定感を持つこと
「趣味」が一人でやることがいいのは、「他人の言うことに傷つきやすい」から「仙人のような世界」を作るためであるが、前述のことをしっかり体得し、簡単に他人の言うことに振り回されないようになれば、たとえば自分の作ったプラモデル作品を雑誌やインターネットに投稿してみるのもいいかもしれない。
自分が苦労してやっときれいにできたプラモデル作品を、他人からも評価されれば非常にうれしいし、それこそ「生きがい」としての価値は増大する。このように、しっかりと他人の評価を受けられるようになれば、その他の場面で他人から何を言われようが気にならなくなる。生きていく「自信」につながるのである。
ところが自分では「うまくできた」と思った作品でも他人から思うような評価を受けられないことがある。そんなときは、他人の言葉に傷つきやすい人は「落ち込んで」しまうかもしれない。
しかし、そんなときは「うまくできた」と自分で思ったときの自分の感覚を思い出してほしい。まずはその時の感覚を「正解」として考えてほしい。そのうえで、その批評を冷静に受け止めるようにすればいい。
その時、その評価者のいうことも一理あると思えるなら、それは「ありがたいアドバイス」として聞き入れ、次回の作品づくりに生かせばいい。それはむしろ悩んだり腹を立てたりすることではなく、自分の自己評価が正しいのだが、更なる自分のステップアップとして目標を与えてくれたと考えるべきことなのである。
このとき、その目標は必ず自分が達成できると信じることが大切である。自分が必ず達成できると信じるからこそ、その批評者に感謝もできるし、作品づくりがさらなる「生きがい」にもつながって、人生がより深みを増していくことになるのである。そしてその課題をクリアする作品づくりができた時、今回と同様かそれ以上の「うまくできた」という満足感が得られるのである。
このように正しい「自己肯定感」を持つことができれば、仮に趣味をさらして他人から批評を受けても、落ち込んだり、腹が立ったりすることはない。いい作品を作れた時の喜びを知っている人は、次にまた更なるいい作品を作れた時のその未来を想像して幸せの先取りができるからである。
謙虚さを忘れた現状肯定のつまらない自己肯定感に包まれているうちは、趣味をさらさない方がいいかもしれない。正しい自己肯定感と言うのは、成長できる今の自分の能力を肯定するものであり、今すぐに自分が正しいとか、今の自分はすごいとか、そういった意味での現状肯定感ではないのである。
このように正しい自己肯定感を持つことができれば、いちいち今言われた他人の批判に落ち込んだり、腹を立てたりすることはなくなると思うのである。(※自己肯定感、謙虚さに関する記事はこちら。)
まとめ
- 「自分」の特殊性の自覚
- 人生の意味づけ
- 正しい自己肯定感
これらの考え方を正しく身に着けて、意味のないいざこざや、他人からの邪魔を回避しながら、意味のある人生を謳歌したいものである。