運とは何かを考える必要がある
人生は運ですべてが説明できるものではない。何かに挑戦して、どんなに努力して成功しても「運がよかっただけ」と評価されれば不条理だと思うし、どんなに努力が足りなくても「運がなかった」と解釈すれば失敗しても楽でいい。一方で人生とは努力でどうにでもなるかというとそうでもない。どんなに努力しても、うまくいかないことはあるし、大して努力しなくても成功してしまうこともある。
では運とは何か。運とは努力や計算ではどうにもならない運命のようなものを想定していると思う。ある意味、「神」「宿命」「天命」「使命」のような、人間の叡智を超えた敬虔で不可解なものの象徴のようなものだろう。しかし、もしそんなものがあるのであれば、「人生」に「正解」が存在することになると思う。人間がどうにもできない決まりごとが、人間の知らないところにあって、人間はそれに絶対に抗えないというのであれば、人間は「運」という言葉で象徴されるものに逆らわずに生きていくことが「正解」の人生となるのだろう。
「運とは何か」という問題は、人間には絶対に解けない疑問である。なぜなら、人間の理解を超えたところにあるものを、人間は絶対に永遠に「理解」できるはずがないからである。であるなら、私はそんなもの「ない」と「理解」することが正しいと思う。理解できないものを無理矢理理解しても、それが原因で何も行動は変わらないからである。せいぜい、その「理解不能、認識不能」の対象に対して毎朝「今日も一日よろしくお願いします」と頼むくらいのことで、それをしたからと言って、あるいはしなかったからと言って、何か具体的に影響が出た証拠は発生しない。すべて後付けで屁理屈をこね、意味のない「祈り」を繰り返すだけである。
運などない(認識できない)が、あると思った方が生きやすい。
このように「運」とは理解、認識不能のものである。たとえば学校の問題集の解答のように、巻末に解説されているようなものではない。間違ったことを「復習」するには、あまりにもあやふやな、根拠のない答えなのである。しかし、私たちは、例えば成功したときは「運がよかっただけだ」と謙遜し、失敗したときは「運が悪かっただけだ」と慰める。これは、私たちの心が、成功したときに必要以上に自分の努力や能力を過大評価して慢心に陥り、注意力散漫になって危険を見落として、人生に躓かないようにするための戒めであり、逆に失敗したときには、必要以上に自分の努力や能力を過小評価して絶望に陥り、自暴自棄になって契機を見逃して、人生が成り行き任せにならないようにするための戒めである。つまりは、なかなか制御不可能な自分の心を、あるかどうか定かでない「運」とかそういう「不可解なもの」を想定して制御しようとする心の働き、心の努力、頑張りなのだと思う。
要するに、人生は運が全てとあきらめるのではなく、あるいは悟りすまして努力を怠るのではなく、しっかり自分に基づいて、しっかり自分と向き合って生きていくための、「道具」として利用するにとどめるべきである。
まとめ
- 「運」は「存在」しない
- 「運」は扱いにくい心を制御する「道具」として、奢らず腐らず生きていくために利用すべき