「匿名」の意味とは?
昨日「春名風花 中傷相手との苦闘10年」との記事がネットに掲載された。SNSの書き込みで名誉を棄損されたとして今年1月、投稿者に慰謝料などを求める訴訟を提起し、被告である投稿者1人と315万円で示談が成立したのだそうだ。この記事を読んで、私は被告人の氏名が公表されないことに疑問を感じた。
「有名」である人と「一般」の人を比較して、どっちが強く、どっちが弱いなんて「判断」するのはおかしいと思う。どっちも同じ人間なので、どっちも同じ扱い方がされるべきだと思う。原告の春名さんは名前をさらされて、被告人は匿名であれば、そこに明らかに差を設けているわけであるから、ではそこにどんな差があるのかを明確にすべきだと思う。
たしかに、その被告人は、事が公になることが嫌なので、示談金を支払って「なかったこと」にしてもらったのだと思うが、もしその被告が未成年ではない場合、私は氏名を公表してもいいと思う。未成年の場合は、学校や遊び友達といった、周りの人間がまだ未熟な人間である場合が多く、いじめの原因になる恐れもあるので、匿名であることも理解できるが、立派な成人の場合、氏名を公表されて、恥をかくことが「責任」を取るということであると思うし、再発の兆候がある場合は、周りの人間から助言ももらいやすくなるのではないか。
「匿名」が守るものの本質とは?
悪いことをしても軽微な場合で被害者との示談が成立した場合は、加害者(被告人)も匿名のままで、何食わぬ顔をして生活していけるのは、確かに心地いいが、しかしよく考えれば、そもそも軽微な過失であろうがなかろうが、匿名にするという選択肢を設けるというのはどういうことか?
私はそれは日本の社会が人生を大袈裟にとらえ、一度間違えたら取り返しがつかない世の中にして、国民を無意識に奴隷化して「制御」しやすくしようとする発想としか思えないのである。そもそも人生に正解はないし、「正解」を教えてくれる人もいないのだから、誰だって容易に失敗するのである。だから、失敗はむしろ行動した結果として賛美されるくらいの世の中になるべきだと思っている。もちろんこの「誹謗中傷」の場合は「やってはいけない行動」であったわけだが、しかしそもそも、そのやってはいけないことがわからなかったのはなぜかを考えなくていいのだろうか?罪を憎んで人を憎まずということわざがあるが、いま日本の社会は、被告人の口を閉ざさせることによって、人を憎んで罪を憎まずになっていないか?
つまり、このように匿名にすることによって、被告人をさらに言外の「晒しもの」にするのではなく、本人の氏名を公表し、そして本人も堂々と自分の罪を告白し、また、その犯した罪に潜む社会問題を明らかにすべきであると思う。この誹謗中傷事件を当事者同士の小さな金銭問題にして大きな社会問題に目をつぶるようなことをすべきではないと思う。被告人は被告人なりに「なぜ誹謗中傷したか?」の理由が(仮に個人的なものだとしても)あるはずだし、言いたいことも言えず、お金だけ払って「終わり」と思えるのかな?と思う。「匿名」ならできた誹謗中傷が、本名をさらされることにお金を払ってまで抵抗するのはなぜか?と思う。
しかし、まあ、私もなかなかこのレベルまで社会が進歩することは容易ではないと思う。誰だって自分は完全無欠と思いたいし、全体のために自分が役に立つという意識より、全体の迷惑になることを恥じる意識の方が大きいと思う。「なぜ」そうしたかということを説明したい気持ちを我慢して、早くみんなの目をそらしたいと思うのは当然だろう。そのためならお金は全然惜しくない。
そもそも学校教育がそうである。限られた時間の中で決められたカリキュラムをこなさなければいけないので、学校で起こった問題は、「誰が悪いか」を整理するだけにとどまりがちである。事件のたびにみんなで「なぜ」かの真因を追究し、個人の反省に頼らずに再発防止をする議論、教育などほとんどされていないと思う。次の授業や行事をこなして学校運営を進めることの方が重要である。
事件に潜む社会性を無視して、時間やお金で解決しても、心に残った「闇」は利息を生んで膨らんでいく気がする。結局のところ、「匿名」が守るものは失敗者の恥の概念だけであり、社会的には何もメリットがないと思う。
ただ、何度も言うが、個人の恥を守るのではなく、個人の「失敗」の経験を共有し社会の財産にする高度な「学び」の社会になるのはそう簡単なことではないとは思う。たぶんそれは、人生に生きる意味はないことを理解するのと同様に難しい。