じょじょ日記

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甘えとは何か?その意味、本質とは?

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「お前は甘えている」と言う人間の本質とは?

「甘ったれるな」とはよく言われる話である。しかし、そもそも甘えているとはどういう状態のことを言うのだろうか?

昔私が社畜だったころ、私が勤めていた某一流企業では、「(仕事が)忙しくてできません」というと、「飯食ってるだろう?寝てるだろう?(その時間はあるだろう?)」とのたまった高卒部長がいた。今なら完全アウトな社畜である。こういうことも、高度成長時代の低学歴無能社畜社会では許されており、彼はそのころ「教育」されて年功序列で無能のまま幹部職になった、昭和から平成にかけて日本の企業に跋扈した、現代ではほぼ絶滅した社畜の一種である(笑)。

何が甘えなのか、人によって千差万別で、まあおおよそ私の経験では、「あいつは甘ったれている」という言葉を口にする人間ほど、よく食うし、よく寝ている。私から言わせれば、こういう人間の方こそ、十分に甘えていると思うのである。

仕事しないのは甘えているという理論の、なんとあいまいなことか。何時間仕事すれば甘えていないのか、どのように仕事すれば甘えていないのか?寝食を忘れて仕事をすることのどこが甘えていないといえるのか?(ただ好きなことに熱中している人間の様子と変わらないではないか?)とにかく「甘えている」などと偉そうに言う人間に、「甘え」の厳密な意味を問いただしても満足な答えは得られないのが通常なのである。

このように「お前は甘えている」と言う人間に「甘えている」とはどういうことを言うのか確認してみて、満足な回答が得られなければ(得られるはずはないが)、信用しなくていい。そんな人間は、人生を「感覚」で生きている「甘えた」人間と思って間違いないのである。

なぜ甘えていると言えるのか?

ではなぜ人間は「甘えている」などと軽々しくいうのか?ということである。私はこれは、その人間が、釈迦の言葉を誤解しているからだと思っている。

釈迦は「人生は苦である」といった。なぜなら煩悩があるから、苦しむのだといった。煩悩とは何かというと、五感だといった。五感は人間に、本来は「無」であるものを様々にもっともらしく「嘘の姿」を見せるからである。だから人生は欺瞞に満ちており、苦でしかないというのだ。

釈迦はただそれだけの「真実」を言ったにすぎす、決して「人生は苦に満ちている。(だから苦労しないといけないのだ)」などとは一言も言っていないのである。

私は釈迦に直接会ったわけではないので、本当に釈迦がそう言ったか、そう思っていたかどうかは知らない。でも私はそう解釈しているのである。

見えるから、聞こえるから、匂うから、触れるから間違うのである。ありもしない感情や解釈を呼び起こすのである。つまり、「甘える」ことなど誰もしてないし、逆にみんなある意味甘えながら(飯を食ったり、寝たりしながら)生きているのに、そんな自分を棚に上げて、どこか自分より「楽をしている」ように見える誰かを評価して「甘えている」というのである。

人間はもともとは無であったので、あるべき姿などないのである。しかし、実際に「ここにある」以上、これはもう、ありようを「決める」しかない。それは各自が自由に(自分に基づいて)「決める」しかないのである。「自分がされて嫌なことは他人にしない」という最低限のルールを決めたら、あとは、自分の経験、自分の五感をたよりに自由に自律して決めるしかないのである。頼りないと思うが、仕方ないのである。でもだからこそ、他人の生き方を尊重もできるのである。

従って、本来、仕事しないのも自由なのである。ただし、仕事をしないことによって招く結果を文句を言わず受け入れるのであればという条件付きだが・・・。したがって、いくら飢えても仕事しない人は甘えているのではなく、逆に働く意思もない人間が食えなくなった時に無条件に飯を与えることが、「甘やかして」いることになるだけである。仕事しない人は飢えるしかないが、それでもいいなら、仕事しなくていいのである。

人間は誰からも「甘えている」などと言われる筋合いはなく「自由」なのだ。

ストレスに耐えることが甘えないことではない。

これはうつ病患者をみて「甘えている」と言う、頭の悪い健常者の態度にも当てはまるのである。

人間は適度のストレスがないと健康に生きられないというが、私はこれは単なる自然淘汰の結果で、ストレスがあったほうが生きる力が湧いてくるというような「マゾヒスト」的遺伝子が多く生き残った結果に過ぎないと思っている。決して、適度なストレスに曝されているほうが生きる活力が湧いてくることが「正しい」とは思わない。

本当は誰だってノーストレスで生きる方がいいに決まっているのだ。だからこそ、理不尽なストレスにさらされて苦悩している自分のストレスを、純粋なストレス弱者に対して「甘えている」という便利な言葉を投げつけることで発散しているに過ぎないと思うのだ。

そして私は、うつ病患者というのは、仕事ができない自分に対して「甘えるな」という上司や同僚に「何が甘えてるだ!てめーこそ甘えてるじゃねぇか!黙って俺の分まで働けよ!クズが!」と言えず、悶々としたままストレスにつぶされる、おそらくはこの先絶滅するであろう遺伝子を持っている人たちなのだろうと考えている。

私の考えでは、人生にストレスなんかいらない。努力なんてしなくていい。やりたいことを死ぬほど愛してやっている人の様子を見て、そのことにそれほど愛情を持っていない周りの人間が勝手にその行動を「努力」と言っているだけだと思っている。

ストレスを感じながら努力して苦難を乗り越える人生なんてまっぴらだ。それが「正しい」なんて言うのなら、私は努力できる人間から搾取して生きていきたい。そしてこの私のような考え方をする人間が「考える」ことを辞めた時に「サイコパス」となって、生き続けているのに違いないと思っている。

本当にやりたいと思わないことなら、やらなくていい。「甘える」というのは、幼児が親に愛情をねだる行為のことで、他人に愛情をねだっているわけではないのなら、「甘えて」などいないのである。

やりたいことが見つかったら、そのことを他の誰も真似できないくらい愛して熱中してやり遂げればいい。そうすることにこそ、人生の意味はあるし、そうしてこそ、自分が生まれた意味は生まれるのだと思う。そのほかには意味はないし、他人が決める意味に意味はない。

他人のことが気になって、それがストレスとなって他人を攻撃している人間は、本当はストレス耐性が弱い人間なのだと思う。それくらい、人生にストレスなど必要ないのだと思う。ストレスを自分が生きていく意味に変えよう。そして難なくストレスを乗り切ろう。それが「甘えずに」生きていく生き方だと思う。

ぼくは麻里のなか

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