人気者になることの本質とは?
人気とは人々の気受けや、世間一般の評判のことである。人気が出る、出ない、人気がある、ないを言う場合、そこには自分以外の人間が必要になる。そして、それら自分以外の人間に自分を好きになってもらうことが必要になってくる。ということは、人気者になりたい人っていうのは、独りぼっちじゃ何もできない人ってこともできる。実はここに、「人気」を気にすることの危うさが潜んでいると思うのである。
人間は一人で生きてはいけないし、おそらく、人生において、人間は自分たった一人という状況になることはめったにないだろう。住むところや、周りの人間が移動したりして、自分を取り巻く人たちは様々に変わるかもしれないが、正真正銘の「ひとりぼっち」になることはないと思われる。
したがって、「人気者になりたい」あるいは「人気者になろう」として努力することは、人生にとって「幸せ」をもたらすような気もする。
ところが実は、このことこそが、生きづらくなる原因だと私は考えている。なぜかというと、そもそも人気者になりたいというのは、大勢いる人たちに嫌われたら、自分が生きづらくなるんじゃないかって恐怖心が、根底にあると思うからだ。
人の機嫌を取ることのしんどさとは?
逆にもし、周りにいる人間と自分との間に見えない壁があって、絶対に他人から攻撃される心配がない場合、それでもあえて「人気者になりたい」と思うかどうかを考えてみればわかると思う。特に周りに気に入られたからと言って、何か援助や協力を得られるわけではないが、嫌われたからと言って特に何も被害を被らないような状況であれば、人間は人のために何かをするだろうか?そんなことよりは、自分の好きなことをして過ごすのではないだろうか?
つまり、人間は本来、自分のために生きるのであって、他人のために生きるのではないということだ。だから本当は、だれしも別に自分にかまわずほおっておいてほしいと思っているに違いないと思うのだ。
しかし、現実の人生では、そのような見えない壁はなく、人から助けをもらうこともあるが、時に人から迷惑をかけられることもあって、だからこそしかたなく人のためになるようなことをして、人から嫌われずに生きようとしていることが多いと思う。
もしそうであれば、実は人間は「人気者になろう」と思って生きていくのではなく、結果として「人気者」になれればいいが、もしなれなくても、自分を大切に生きていこうと考えるほうが、本来の自分の欲望に正直な生き方なのだと思う。
もっと言えば、「人気者になりたい」なんて思ってる人は、本当にそうか、人気者とはどんなに大変かよく考えてみるといい。「人気者」とは通常、人々によい感情を与えてもてはやされる人のことである。人々というのは「普通」であるから、自分も「普通」でなければならない(「普通」の気持ちがわからないといけない)。しかし同時にただの「普通」では人気者になれないという矛盾をはらんでいるのだ。そんなことを狙ってやるなんてもうほとんど不可能である。
もしどうしてもやるとするなら、他の人に考える隙を与えないような速さで自分の長所をアピールし、思考を停止させるような大声で訴えかけ、再現性のない特殊なエピソードを感動的に脚色して話し、できるだけ大勢の人を「信者」にするしかないと思う。
つまりそれって、いわゆる「悪徳教祖」や、「芸能人」、「タレント」と言われる人たちがやっていることと同じで、結局はある意味他人より秀でた能力(歌、演技、漫談、知識等)やプライバシーの切り売りでしかないのである。
であれば、もういっそのこと「人気者」になるのはあきらめて、「自分に基づいて、自分に従って、自分を大切にして」生きていった方が手っ取り早いと思う。「人気者」になれるかどうかは、その結果、二の次三の次でいいのである。
「人気者になること」など、そもそも他人の心など簡単に操作することはできないので、その手順が確立できないことから、人生において一番目標にする価値がないと思うのは私だけだろうか?人生の目標、目的、生きていく意味は自分を中心において、自分で決めるのが一番簡単で、納得のいくものができるような気がするのである。