ウラシマ効果とは何か?
二流大学文系出身の私がウラシマ効果を語るなんぞ、一生無理なんだが、あえて語る。理由はネタ切れと哲学的興味である。
ウラシマ効果とは、超簡単に言うと「光(に近い)の速度で動く物体は、時間が遅く進む」ということである。なぜウラシマかというと、浦島太郎の物語になぞらえて、命名されたらしく、昔話の浦島太郎は、惑星間を高速で移動したので、移動中は時間がゆっくり進み年を取らなかったが、地球に戻ったとたん、時間が元に戻り、一気に老けたという理屈である。もちろん、この考え方は正確な「特殊相対性理論」の考え方を示しているわけではないので、物理学上の正式な名称ではないようである。
ではなぜ、物体が光の速度に近い速さで動くと時間の進む速度が変わるのかというと、もっと正確に言うと、動く物体は静止している物体に比べて時間はゆっくり進むということである。ただ、その差は極めて些少なので、速度が光の速度に近づかないと人間が観測できる差として認識できないということなのである。
なんでそんな発想になるかというと、まず「光は一瞬で移動する」ということを「真実」として認識するところから始めなければいけない。現在光の速度は秒速約30万キロと言われているが、この速度は一秒で地球を約7.5周もする速度なので、「一瞬」と言ってもいいのである。
この「一瞬」を認めることができれば、光の速度で動けば、時間は遅く進む(止まる)ことは一瞬で「説明」できるのである。その説明はこうである。光の速度で動く発光体を観察するとする。その物体がA地点からB地点までを移動するときに、そのA地点とB地点の通過時間をそれぞれa時刻、b時刻とする。この時、その発光体は光の速度で一瞬で移動するのであるから、A地点とB地点を通過した時間a時刻とb時刻は同じ時刻ということになる。このことは、光の速度で動ける物質は同時刻に別の場所に存在することができることを示している。一瞬で移動できる物体は、移動するための時間は必要ないからである。
要するに、光の速度で動く物体(質量がゼロとするとという前提が必要なのだそうだが)の時間は止まっていることになる。ということは、光の速度に近い速さで動けば、その物体の時間の進み方は遅くなるはずだということが言えるのである。そしてその現象は現在様々な場所で観察されている。ただし、そのズレの測定には高度な観測機器が必要であり、測定したところでそのズレはあまりに小さく、人類の生活に何の影響ももたらさないので、誰も知らなくても何の問題もないのである。
時間とは何か?
「無」の世界では時間もないと思われるので、「時間」とは「有」の世界に住んでいる我々が勝手に作り出した「理屈」「尺度」と言える。もしも宇宙に「絶対時間」があって「時報」みたいなものが存在するなら、時間の進み方は宇宙のどこでも、どんな状況でも変わらないはずである。しかし、もともと存在しない「時間」を動きが超絶遅い我々が自分たちの都合に合わせて勝手に定義したので、動きがあり得ないくらい早い世界から見れば、「時間」は変化して「感じられる」だけであり、もし絶対時間があれば、「時報」が示す時刻の状況をすべての環境において「確定」することによって、時間の進み方はどんな状況でも変わらないということになるはずである。
というか、つまり我々は時間を「進み方が場合によっては変化するもの」と決めなければ、この「有」の世界を理解できないだけであって、おそらく「絶対時間」のようなものを仮定して理論構築ができる天才が現れれば、きっと世の中は変わるのだろうなと思う。
なぜそう言えるかというと、この広大な宇宙を自由に飛び回ろうとすると、光の速度を超える乗り物を準備しなければならない。そうでなければ、何万光年先にあるような星を訪れることは不可能だからだ。したがってもしそのような乗り物を、未来に人類が手に入れることがあれば、その時は今の「時間」の概念ではない、「絶対時間」のような概念を獲得しなければ旅行計画が立てられないのである。だからきっと、「絶対時間」は宇宙のどこかに存在するはずだと思うのである。
私は「文系」なので、現代の物理学的「時間」論をここで正確に解説しようというのではない。おそらく、物理の専門家から言わせれば、大きな勘違いを含む記事なのだろうと思う。でも、時に物理学は重大な人生の気づきを我々に与えてくれる。「学問」が「証拠」をもって、何かの「定理」を表現してくれることは、新たな人生訓の獲得につながるのである。
「時間」とは人生を合理的に生きるために設定された架空の尺度であり、人生の「実行」の時刻を指す目盛にはなりえないといえる。「動けば」遅くすすみ、「止まれば」早く進むのである。であれば、「動いている」人の人生は遅く進むのでお得であるといえる(人によっては不幸かもしれないが)。ましてや時刻になど何の意味もない。「いつやるの?今でしょ?」という予備校の講師が言い出した「実行の合図」があるが、「今とはいつか?」「何時何分のことか?」は人によって違うということができる。
つまり、人生に「遅いも早いもない」という、理屈もへったくれもない教訓を言いたいだけである。それを自信と確信をもって「信じる」ために、物理学の「時間論」を知っておく(理解できなくても)ことは有用である。
いつやるの?今でしょ?・・・はい、「今」ですね?