死ぬまで生きてみてはどうか?
東京八王子で高1が拳銃自殺したらしい。動機は病気か?拳銃入手経路は不明(6/10現在)。自殺はしなくていいと思う。なぜなら、どうせ死ぬんだから。金持ちも貧乏も、健康な人も病気の人も、尊敬されている人も軽蔑されている人も、誰一人間違いなく死ぬ。どうせ死ぬのに、自分から死ぬことはないんじゃないか?死ぬまで生きてみたら、きっと最後には納得できる何かがあるような気がする。なくても、それはそれで、「あの時死んどきゃよかった」って確信をもてるだけ、「意味」があるかもしれない。
でも、本当は私もどうしても死にたければ死んでもいいのではないかと思っている。生きるということにそれほど重要な意味を感じないので、生きるのがつらくてしょうがないなら死ぬ自由もありと思う。ただ、生きるということにそんなに重要な意味を感じないからこそ、別にどんな生き方をしても、金持ちでも貧乏でも、有名でも無名でも、天才でも愚鈍でも結局それほど変わりはないから、自分で命を絶つことにもあまり「意味」はないと思う。どっちみち、それほど大きな意味はないなら、どうせいつか「死」の世界に向かうことがわかってるなら、「今」焦って「死」に急ぐことはないと思う。
「正しい」生き方があるに違いないと思うから、それから外れると「死にたい」と思うのであって、「正しい」生き方なんてないと思えば(知れば)、本当はどんな生き方だってできると思う。金持ちでも貧乏でも、賢くても馬鹿でも、健康でも不健康でも、どんな生き方も結局はそれほど意味はないと知れれば、生きていくことはそれほど怖くはないと思う。我々はもともと「無」だったのだ。ある日いきなり「有」になった。偶然にだ。本人に自覚がないのだから、「偶然に」としか言いようがない。「強制的に」と言い換えてもいい。「有」は「有限」だが、「無」は「無限」だ。つまり本質的にはすべての「有」は「無」になるのだから、なにも「有」にこだわる必要はない。「有」自体に何の意味もない。だからこそ、あえて自ら「無」に還る必要はない。「有」るがまま、死ぬまで生きてみたい。
だた、いったん「有」になってしまうと、何か「意味」も「有」ると思い込みがちになる。それは我々が「有」そのものになってしまってから、逃れられない宿命のようなものかもしれない。でもその「意味」を探すことによって「無」へ導かれるなんて、皮肉なことだ。本当に人生は矛盾に満ちている。でもたぶん、「本質」は極めて簡単なことなのだろう。ただその「本質」は極めて分かりにくい。
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