趣味の意味とは?
私の趣味はギターである。ギターを弾いているときは楽しいし、すべてを忘れることができる。ギターが弾けないのであれば、生きる価値はほとんどないと言ってもいいくらいだ。(※ギターについての記事はこちら。)
だが決してうまくはない。たぶん素質もないし、そんなに熱心に練習もしないのでうまくもならない。仕事もしていたので、どうしてもそちらに重点を置かなければならず、時間が取れなかったというのがいいわけだ。
それでもギターが趣味と言い切れるわけは、「夢中」になれるからだと思う。別にコンサートや宴会芸で披露してみんなの注目を浴びるというのでもない。ただ、一人で楽しんでいるだけだが、それでも十分に満足できる。孤独であっても、すべてを癒してくれる大切な「生きがい」だからだ。
たぶん、趣味が高じて他人の称賛を得る場合もあるだろう。そしてそのことがさらに趣味の熱を高めてくれることもあるだろう。でも、本来の趣味と言うのは必ずしも「他人」を必要としないのだと思う。おそらく「他人」を必要とする趣味は、結構ストレスも生じるものだと思う。
たった一人でその世界に浸れるものが「趣味」なのだと思う。
趣味の持つ本質とは?
人間は母親の胎内で10か月間たった一人で過ごす。そのうちのどの時点で「感覚」が芽生えるのかはわからないが、それにしても相当長い時間、じっとして過ごしている。その時、たぶんたった一人で、自分の世界の中で「楽しみ」を持っていたはずだ。そうでなければ狂ってしまうだろう。
「趣味」はその当時の淡い記憶を呼び起こしてくれる作業なのかもしれない。そして、その趣味を他人に披露してみようと思う時、「誕生」の期待の中で満ち溢れる光の感動を、もう一度体験するのかもしれない。
ある人は、その「期待」の大きさに比べて「他人」の反応が小さすぎることによって、感動をなくすかもしれないし、あるいはある人は、「他人」のこころない「批判」に傷つき、その趣味を放棄するかもしれない。
しかしもし、その人の「趣味」が、誕生の瞬間の「希望の光」の純粋さに近ければ近いほど、新たな世界に生まれた喜びに包まれる感動に驚きを隠せないだろう。
その時の感動は「他人」のつまらない評価をものともせず、更なる高みへと、趣味の道をまい進させるかもしれない。そんな「趣味」を見つけられた人は、それ以降「不幸」になることはない。どんな不幸も趣味の世界によって救われるからである。そしてそれは「他人」のいかなる主張や都合、嗜好によって邪魔されることはない。趣味とはあくまで個人的な、胎内への回帰だからである。
趣味を持つことは、生きていくうえで重要であると思う。趣味とは、「生きる意味」になりうるであろう。そして生きる意味は正解がないからこそ、もっとも個人的で自己中心的で、自己満足であることが許されるのである。
人間はそれぞれ、趣味を見つけるために生きていくのかもしれない。(※趣味についての別記事はこちら。)