単純に言えば、自分が嫌なことは人にしてはいけないということ
自分の好きなように生きていけばいい、人生に正解はないというと、必ず問題になるのが、「ではなぜ人を傷つけてはいけないか」「人を殺してはいけないか」ということになる。直感的に言っても、理由なく人を傷つけたり、人を殺していいわけないだろうということだが、もうすこし論理的に考察してみたい。
原理論的に言って、人生に正解はないのだから、人殺しの人生も「間違っている」とは言えないと思っている。戦争中に外国人を大量に殺した日本人を全員一人残らず生き方間違ってると断ずるほどに、「正義」「倫理」「道徳」に関して万能感はない。どっちみち人生に生きる意味はないと思っているので、どう生きようがどうでもいいという意味で、特別に意味はないと思うのである。
だがしかし、では私は人を殺してもいいと思っているかというと、または、人を殺したいと思っているかというと、そうではない。むしろそんなこと嫌だしばかばかしいと思っている。なぜなら、人生に正解はない以上、自分に基づいて生きていくしかないのだけれど、もし、そこに何のルールもなく、まるで弱肉強食のような野蛮な世界であれば、その世界はもはや自分に基づいて生きることすらできない闇の世界となる。だってある日「東京ディズニーランドへ遊びに行きたい」と思ってディズニーランドへ向かっていても、途中で誰かに殺されて人生が終わるなら、「東京ディズニーランドへ遊びに行く」という自分さえ実現できずに終わるという切ない人生を生きなければならなくなるからである。
つまり人生を、たくさんの他人に囲まれた世界で、しかも誰にも影響されず、自分に基づいて生きるためには、ある程度のルールが必要になる。そしてそのルールはできるだけシンプルで分かりやすいルールでなければいけないし、誰でも守りやすいルールでなければならないし、誰か特定の人の自由を妨げるものであってはならないと思う。
そんなルール作れるのかということだが、たった一つだけなら作れる。残念ながら万能ではないが、しかしある程度有効なルール、それは、「自分がされて嫌なことは人にしないようにしよう」という、誰でも幼い時に親やその他の大人から聞いた最もシンプルな「生きるルール」だ。これは先ほど言った人を殺すという行為の抑止力にはなると思う。なぜなら、誰だって東京ディズニーランドへ行く途中の道中で殺されたくないし、今一番食べたい料理を運んでくるウェイターの様子を見ながら殺されたくはないはずだからだ。
しかしこのルールも万能ではない。最近たまに起こる「通り魔」のような人間にはまったく意味をなさない。事実、このルールを発展させた形で設置されている「警察」という組織も「通り魔」が犯罪を犯す前には逮捕できないし、人を裁く「裁判所」も「死刑」にすることはできない。将来出現するかもしれない「通り魔」に対して「抑止力」として作用する程度である。
このルール、その一番基本的なものは「人を傷つけてはいけない」「人を殺してはいけない」ということだが、しかし少なくとも、そのルールを自分が守っている限りは、自分に基づいて生きていくことができる「免罪符」「許可証」のような気がして意味ありげである。つまり、私は私に基づいて生きていくために、人を殺さないのである。