神は存在しないという証拠!?
神は存在するか?これは永遠のテーマである。しかし、まだ結論は出ていない。いや、宗教的な意味では「神がいることを前提」に成り立っている宗教もあるので、神は存在すると考えたい人もたくさんいるだろう。だが私は「神は存在しない」と思うのである。
私たちは、間違える生き物である。私たちは正しいことを強烈に欲しがっている割に、間違った選択をしがちな生き物である。母親が子供を育てるとき、子供がまだ言葉をしゃべれないうちは、子供を教育するときに、大きな声で威嚇したり、時には軽くたたいたりする。あるいは、お湯が沸騰しているやかんに触ればやけどすることを教えるために、すこし熱いやかんにわざと触れさせることもあるだろう。または、指しゃぶりがなおらない赤ん坊には指にからしを塗って、やめさせたりするかもしれない。このように、人間には身をもって体験しなければわからないことが多いのである。言葉が通じないということより、むしろ、「体験」が重要なのだと思う。そして、その体験の後に、「ね?やかんはあついでしょ?」とか「もういい加減、指をしゃぶるのはやめようね?」とか言葉をかけて、教えるのだと思う。この体験があった後の言葉というのは、教訓としての力を十分に発揮すると思う。それが証拠に、あついやかんに驚いて泣き出した赤ん坊や、指の辛さに驚いて泣き出した赤ん坊も、この後の母親の言葉を聞いて、意味は分からないはずなのに、妙に納得したように泣き止むのである。
人間は神の捨て子!?
何が言いたいかというと、人間は間違えた後、失敗した後の「言葉」で学習するのであって、ほったらかしにしておくと、何も学ばない、もしくは「逆恨み」といった、逆の解釈さえしかねない脆弱な存在なのである。だから当然、人間は、おおよそすべての場合において、幼少のころは「義務教育」を施される。学校は、その教育を効率的に行うための社会システムである。学校に行くことそのものが大切なのではなくて、そこで学ぶことが大切であり、その学びがなければ、人間は成熟していかないのだと思う。
もしも神が人間を正しく導く存在なら、そして、神が人間をこのような存在にしたいという希望を持っているなら、体験の後の言葉がなければ、人間は正しく学ばないことくらいわかるはずである。そうでなければ、神ではない。神は人間を超越した存在なので、人間が考える理屈で動かないという考え方もあるが、上述のように、実際人間は「教育」が必要な存在であるのであるから、教育を施さない神は神ではないと考えるのが普通である。神は人間を超越しているから、人間の想像を超えた方法で教育を施しているのだという理屈で思考停止することは、人間にとって何もメリットがないという意味で、私は間違っていると思う。
端的に言えば、これだけ待っても姿を見せてくれない神など、もういないことにするということである。人間はみな神の捨て子なのである。自律して生きていこうということである。自分に罰を与える神も、その祝福のために生きなければいけない神もいないことを確信し、神を忘れ、神にすがることなく、自分の意志で、自分の決めたルールに従って、悔いのない人生を送ることを決心し、力強い歩みを進めていくことが、自分の生きていく道であると考えることである。
ただし、このように人間を自由で孤独な存在だととらえることはとても難しい。だからこそいまだに神を信仰する宗教がなくならないのであって、自分で自分を律することが簡単にできるのであれば、人間はそもそも神など創造しなかったと思う。つまり、自分の中にルールを作るとき、自分を超えた存在をイメージしなければ、非常に難しい。それは人間が間違える存在であることを認識しているので、その自分(人間)が作ったルールを信じることはできないことが原因しているのかもしれない。その場合は、「本当は神など存在しない」ことを十分に分かったうえで、神を想定して生きていくことは意味があることなのかもしれない。
[…] などいないから、人は「殺せる」し、「死ねる」のである。同時に、神がいると思うから「殺したり」「死んだり」するのであると思う。※私は神はいないと考えるという記事はこちら。 […]
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