「無」の意味とは?
仏教でいう「無」とは何か?そんなもの、仏教徒でもない私ごときが論じられるはずもないのだが、ネタ切れと哲学的興味により、考察してみようと思う。
まずは「無」ですが、この言葉は対義語として「有」があります。
つまり「無」とは「無い」状態です。
天台寺門宗別格本山 鶏足山 金倉寺HPより
https://www.kagawa-konzouji.or.jp/blog/category-12/entry-122.html
ということらしい。しかし、私ごときには全く分からないので、以下に私独自の解釈を展開したい。
結論から言うと、釈迦が言う「無」とは、最初から無いものにだけ許される「存在」の状態に近いものであって、もともと有るものが「無くなった」ような、ひょっとしたらまた見つかるかもというようなあやふやな状態とはわけが違うということだ。例えば形あるものがなくなる場合、それは、質量保存の法則により、「そのもの」としての形はなくなるが、別の形として存在し続けることになる。一方、もともと無いものは、どこまで行っても何も無いのである。私は釈迦が言う「無」とは、このもともと無い状態のことだと思っている。
理解を助けるために、レゴブロックで怪獣を組んだ場合で考えよう。この時、その怪獣のレゴブロックをばらばらに分解して外していっても、レゴブロックの怪獣はなくなるが、レゴブロック自体はなくならないのである。したがって、そのレゴブロックがある限り、レゴブロックの怪獣はまた組み上げることはできるのである。つまり、レゴブロックで組んだ怪獣をばらして「無」にしても、真の意味での「無」にはならないということができる。もう二度とお目にかかれない、最初から何もない場合と同じ、真の「無」の状態になることではないと理解できる。
さらに厳しくいうと、いったんレゴブロックで怪獣を組み上げてしまうと、仮にそのレゴブロックを紛失しても、かつてレゴブロックで作った怪獣を思い浮かべることができるので、真の「無」にはならない。最初から何もない「無」ではなく、記憶としての「情報」が残ってしまうのである。
もしも、人間がレゴブロックのように「有」でできているのであれば、よく言われるように「生まれ変わり」もあるかもしれない。もう一度、「怪獣」を組み上げればいいだけのことである。
生まれ変わりがない魂はどう生きるべきか?
しかし実際には、「生まれ変わり」の事実はほとんどないし、科学的には証明されていない。
これは一体どういうことかというと、超厳密に言って、量子レベルでは、人間は物理的に生まれ変わっているのかもしれないが、精神的にというか、いわゆる「魂」は生まれ変わらない、あるいは生まれ変わらないと解釈してもいい状態になるということだ。
人間=「魂」は、いったん無くなるともう二度とお目にかかれないのであるから、人間は死ねば、最初から生まれていないのと同じ状態になるということができる。つまり、人間は死ねば真の意味での「無」になるのであるから、人間の本質も「無」であると解釈していいと思う。
しかし、一方で、いったん存在してしまえば「情報」は記憶として生き残った者の魂の中に残ってしまう。ここはどうしても「最初から何もなかった『無』」とは一線を画すわけである。人間の本質は、有ったものが無くなったというような単純な意味での「無」ではないが、かといって最初から何もなかったというような冷酷な意味での「無」でもないのである。
「無」は「有」の対義語として理解されるが、真の「無」とは「有」と「無」の間を行ったり来たりできる一時的な「無」のことではなく、最初から何もないのと同じ、永遠の「無」のことである。
繰り返しになるが、私は釈迦が言う「無」を、この真の意味での「無」であると解釈している。つまり、「無」を「有」の単なる対象概念としてとらえるのではなく、「無」は絶対無限の状態と考えるのである。やり直しは利かないのだ。つまり、人間の本質は「無」であり、どういうメカニズムかはよくわからないが、たまたま、この「有」の世界に偶然飛び込んできただけなのであって、もともとは「無」の世界の住人なのだという考え方である。なので、「有」は仮の姿で、本質ではないということである。だから当然、「有」のあるべき姿なんて「無」いのである。
従って、私は「意味」を「有」ではなく「無」の方に見出そうとする。というか、本来「人生に生きる意味はない」と考えるのである。しかしどういうわけか、本来「無」であるはずの私が、この「有」の世界に存在してしまった以上、「有」である私の責任において、「人生の意味」は「有」であるところの自分に従って作っていかなければならないと解釈するのである。そして、その「無」は一旦「有」になった以上、人々の記憶の中に「情報」を残してしまう。したがって、自分の人生の「意味」は自分で作っていきながら、意味のある「情報」を残そう、もしそれが後世の人々の役に立つ有益な情報であれば、最高ではないか、まあ別に最高でなくてもいいけど・・・、という風に考えるのである。
これが私が提唱する「人生論」の核であり、超絶わかりやすく言うと、「好きなように生きていい」ということなのである。※これに関連した記事はこちら。
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