才能のしくみとは何か?
結論から言うと、私は才能とは脳機能の指向のことだと思っている。要するに、まるで神から与えられた特権のようないわゆる「才能」なんてものは、この世になく、結局のところ、普通才能と言われている能力は、ある意味脳機能の偏りのことであると思うのである。確かに誰も達成しえないような異能(例えば世界最速の記録とか、超人的な能力)も存在するが、それは人間の突然変異体のようなものでそれは特別として、いわゆる神が与えたもうた(天賦の)才能なんてものはないと考えるのである。※神などいないという記事はこちら。
つまり、「才能」とは脳の発達方向をどこに向けたかということだと思うのである。ほとんどの子供は小さい頃は親に監視されているので、親が考えたものでしか遊んでいないことが多く、普通は子供の時から、「生きていくために必要なものはオトナが用意してくれる」環境にいる。そして、その後も学校、会社といった成長にとってはおせっかいな環境の中に生きていくので、「自分は何がしたいか」に気づかないままオトナになる。それが普通のオトナである。
しかし、どちらかというと自主性を重んじられて育てられた子供は、自分の興味が自分を成長させてくれることを知っているので(というか、必然的にそうなるのかもしれないが)、あまり環境に左右されず、選び取る能力が磨かれていくのだろう。子供のころから特に親が英才教育をしたわけでもないのに優秀な成績を収めることができる人間が現れるのは、そのためだと思う。
もう少し具体的に言うと、例えば自主性を重んじられて育てられた子供は、幼少期に、周りを見て野球に興味を持てば、野球をする能力を開発する方向に脳は発達するだろうし、音楽に興味を持てば、楽器の演奏や作曲の能力を開発する方向に脳は発達するだろう。その興味が強ければ強いほど、親が見ていないところで、子供はまわりにある「おもちゃ」を野球のバットや楽器に見立てて「自主練習」しているだろうし、もしその興味が、ある程度成長しても持続していれば、少年野球や、ピアノ教室に興味をもって通うようになるだろう。そうなれば、そもそも鍛え方が違うので、他の子供に圧倒的な差をつけて能力を伸長するのだと思う。つまり、より早くから、より長くそのことに携わっていたことが、能力伸長の原因ということなのだと思う。
そしてオトナは自分の子供のころの記憶などなくしているので、オトナになって獲得した「常識」に基づいて判断するため、そんな子供の様子を見て「初めてなのに天才的!(素質、才能がある)」と驚きをもって絶賛するのである。
「才能」と「成功」とは、「好き」なことを「やり遂げる」ことである。
さらに、才能とは成功とペアの概念である。才能はあったが失敗した人の事というのはあまり語り継がれることはない。成功なき才能はないのである。しかし、様々な天才について語られる神秘的な成功のエピソードはすべてその信奉者たちの後付けの装飾で、現実に起こったことは、単にその天才がそのことが好きで(死ぬまで)やり続けたという事実に収束するのではないだろうか。
わかりやすく言うと、いま語られているすべての天才的な偉人の成功のエピソードは、要するに、そのことに長く携わったものだけが、「成功」するという単純な事実をあらわしているだけのような気がするのである。というか「成功」とはそもそも、その天才が最終的にやりたかったことをやり遂げただけのことであって、そもそも「成功」そのものを目指して何かやるということは、人生においてあり得ないのではないだろうか。やりたいことをやり遂げ、そして何らかの、普通の人が認識できる形あるものを残すことが「成功」なのではないだろうか?
たとえば、女の子にもてたいという理由でギターを練習している人間と、純粋にギターがうまくなりたいと思ってギターを練習している人間とでは上達のスピードは違うだろう。それは彼らの「動機」が違うので、「成功」への形も違って当然なのである。しかし、動機が不純であるということは、才能や成功とは全く関係がない。女の子にもてたいと思って始めたギターだったが、やってみると楽しくなって、結局ギターの天才と言われるようになった人などたくさんいる。つまり「才能」とは「興味」の強さであり、「成功」とはやり終えた結果であるといえる。「成功」を具体的にもくろんで成し遂げるということはないのである。つまり、「成功」したければ、好きなことをやり続けなさいということなのかもしれない。それが結局「才能」とか「成功」とか言われるものの正体なのかもしれない。