市場の失敗の意味とは?
モノの価格は需要と供給によって決まる。すなわちAという財を100円で販売したい人と、Aという財を100円でなら購入したいという人がいれば、取引が成立し、Aという財は100円に決まる。そしてまた、このA財を90円で販売したいという人が現れた場合、90円なら買うという人が現れるとA財の価格は90円に下がる。ところが、A財を90円で販売する人は儲からないのでA財を売らなくなると、A財を100円でもいいから買うという人も増えてくる。このようにして、経済は時間をかけて「最適」な状態に自動的に収束するという考え方が、経済学の基礎であるといってもいい。
しかし一方で、そのような市場原理には「市場の失敗」という欠点が存在するという人もいる。つまり、例えば、個人的にA財を100円で購入したいという人は、A財を生産するときに発生する公害のことを考えてはいないし、そもそも、A財を販売する人が一人しかいなければ、A財の価格は販売する人の決定する価格一択に決まる。また、A財に関する十分な情報を、売り手と買い手で同じ質と量を共有していない場合は、「最適」な解にたどり着けない。いいかえると、まがい物をつかまされる可能性もあるのだ。さらに近くに消防署や警察等の公共財がある場所での営業ならA財を安心して売ることができるので、十分に供給できるが、消防署や警察等の公共財から離れたところあるいは公共財が得られないところでの営業はリスクを鑑みて、供給者はA財を販売しないかもしれない。このことは、結果的に供給が不足傾向になるという意味で、やはり「最適解」にたどり着かないという欠点があるのである。
これらが経済学における「市場の失敗」と言われるものである。市場で何でもかんでも「自由」に決めればいいというようにすると、様々な「不自由(不都合、不平等)」を強いられる人々が生じるというわけである。
経済学の研究が示す人間の生き方とは?
従って、すべてを「市場原理(見えざる神の手)に任せるのではなく、市場には政府の適切な介入が必要である。」という経済学が発達することになる。※島根大学 経済学概論はこちら。
経済学においては、前述の内容が代表的な「市場の失敗」だが、これを人生に置き換えてみても、同じような「失敗」が散見される。やはり人間という存在は不完全で、ミスはつきものなので、何かが人間の行動を「修正」しないと人間は「正しく」生きていけないのである。
人間はこんな状態で地球上に野放しにされている状態を見るにつけ、やはり「神」などいないと思うし、人生を生きる意味などないと確信するのである。※神に関する記事はこちら。
人間はなぜこのようなミスをするようにできているかと言うと、人間は皆、偶然存在しているからであって、つまり人間は奇跡の存在であるからである。要するにもともと何らかの目的や意味があって必然的に生まれたのではないからこそミスをするのであって、もしも何かある目的があって、そして意味があって生まれてきているものなら、そもそもミスをしないように生まれてくるだろう。
人間は多くのミスを犯す。自分が生き延びるために多くの他の命を奪う。この意味では、人間は他の動物と何ら変わりなく、そして、他の動物とほとんど同様に、「生きる意味」なんか考えてもいないということが、正直な心情なのである。すべての宇宙の存在と同じ宇宙法則に基づいて「存在」しているだけなのであると言えそうである。
しかし、生きていくために「言葉」と「お金」を発明し、そして「お金」によって人間の社会の不完全性に気づき、「言葉」によって思いを伝えようとするこの人間だけが行う営みはいったい何なのだろうか?
もし人間に「意味」をもとめる「意思」がなければ、自分の不完全さ、無知さ、愚かさのままに、自然を破壊しつくし、命を奪いつくして、もうとっくに絶滅していたのではないのか?
自分の無知さ、愚かさ、弱さ、不完全さに気づけるのは、自分のなかに「意味」を追い求める「意思」があればこそではないのか?
自分の「意思」つまり自由意思によって、「意味」を求めなければ、人間は「自然の法則」に従って、「生まれては消えていく」だけの存在なのではないか?
今、世界はコロナ禍の中で、各国の政策の善し悪しが問われている。まさしく市場の失敗により、疫病が蔓延しかねないからである。自然淘汰による市場原理万能主義では解決できない課題を、今人類は世界レベルで眼前に突き付けられているのだと思う。
これはとりもなおさず、人間が内包している不完全さの補完をうながす、宇宙からの問題提起にちがいないのだ。
確固たる「意思」をもって、この難局を乗り越えていかねばならない。
生きる意味は自分以外のどこにもない。だからこそ、生きる意味を考えて、自分の意思で、生きていこう。