定年者会とは?
私の勤めていた会社でも定年者の集まりというのがある。かつて高度成長時代の定年者なんてよほど贅沢さえしなければ、ほとんど退職金、年金だけで食っていけるので、普通は定年後は仕事もせず、遊んで暮らしている。毎日することがないのである。そして、さらに現役時代の栄光を時々味わいたいさみしさもあるので、定年した人間だけで集まって気を紛らそうという会である。もういい加減、消滅してもいい昭和のサラリーマンの夢の跡である。
かつてモーレツサラリーマンと言われ、「24時間戦えますか?」と滋養飲料のCMに踊らされた社畜集団は、この「定年者会」において、現役時代の上下関係を死ぬまで引きずっているのだ。簡単に足抜けできないかつての反社会集団の掟のような、あるいは典型的日本の村社会のような柵(しがらみ)である。しかしさすがに、勘違いした古株の老人が現役時代さながらに新入りの老人を子供扱いしたりすると、かつての部下であったその老人も今更年金の額に影響が出たりするわけではないので「反撃」に出たりする。特に現役時代いじめられた思いのあるかつての部下は、恨みのあるかつての上司に対して、ここぞとばかりに「仕返し」をする(痛烈な「嫌味」を言う)こともある。それを冗談とも本気ともつかず、へらへら笑いながらやるのだから気味が悪いったらないのである。
そして面白いことに、この老人会の世話をするのは、退職したての「新人」なのである。本当なら、年長者が、新人をねぎらうべきだろう。心理学でいうところの「共依存」の典型で、奴隷は死ぬまで奴隷なのである。一流の人達というのはどこまで厚かましいのだろう。
何の意味もない、無趣味老人の集まり。
私もかつて、一度だけ若いころにこの定年者の集まりの世話役を仰せつかったことがあり、醜い「オトナ」の世界に背筋が凍った経験がある。
ではなぜこんなどろどろした世界に、会社を定年してまで所属したがるかというと、それはかつての日本のサラリーマンは押しなべて無趣味の社畜であったことが一番の原因である。夢中になれるものがあれば、たとえ一年に数回でも、今更何のメリットもないかつての会社の連中と会う時間などないはずである。にもかかわらず、年会費を払ってでも集まりたいと思うのは、かつての「一流会社」の属性を死ぬまで維持していたいという、自尊心のためだけなのである。それを「戦友」などと美化して傷をなめあう姿は、本当に見ていて醜い。第二の人生で全く新たな成長を遂げ、人生を前向きに意味付けしている人間などほとんどいない。そもそもそんな人はこの会に参加しない。哀れな話である。
そして、例外なく、先日私にもその「入会通知」がきた。ご丁寧に入会しない場合は「理由」を書けということである。これはたぶん、最近入会しない人間が増えてきたからだと思う。そして、めったに行事に参加しなかった私にまでご丁寧に入会案内が来る理由は、すくない運営費のとりっぱぐれを防ぐためである。私のようなコミュニケーション下手で、金だけ払ってくれるような社畜人間は、ちょうど都合がいいわけであろう。
そもそもリストラ早期退職の私はすでに会社に対する忠誠心のかけらもなく、社畜の習性もすでにだいぶなくなっていたので、迷わず「入会しません」に〇をつけ、理由をテキトーに書いて返信した。
今のところ文句は聞いてない。強制的に徴収する権利などないはずなので、おそらくもう永遠に彼らとは縁はないだろう。今後、この会に参加しなくても全く問題のない人生を送るつもりである。