創造の定義とその開発手法
創造とは、日本創造学会によると、下記の通りである。
言い換えれば、「創造」とは情報ブロックを様々に組み替えて、今までになかったモノを作り出す行為のことか?子供がレゴブロックを様々に組んで好きな造形を作り出すことに似ているかもしれない。
では、創造する方法には、どのようなものがあるかというと、上記の日本創造学会によれば、
上記のようにまとめられるらしい。ただし、これらは創造の成果物へたどり着くための手順ではなく、成果物へたどり着くためにしたほうがよい手法を示しているだけであることに注意が必要である。つまり、この手法というのは言わばあくまで「自転車の乗り方」を示しているだけであって、目的地へたどり着くための道筋を示しているのではないということだ。要するにここに示されている手法を実践しても、何か創造できるかどうかは別ということである。
そもそも「創造」とはこれまでにない新しい価値を生むこととするなら、その価値を生み出す具体的手順(工程)など存在しないのである。とすれば、その手法も無限にあり、無限にあるということは決まったものはないことと同意である。
創造に必要な「本質」は何か?
要するに「創造」のためにはどんな手法を使ってもいいと思うのであるが、どんな手法にも共通する観点、要因はないのだろうか?
私はそれは「熱中」であると思う。「努力」を時間割りで決められた、本人の意向や(ややおおげさだが)健康状態を無視して実施される学校の「勉強」のように、どこかしら「しかたなく」「がんばって」やるものではなく、「それをやらずにはいられない」「それができなければ夜も眠れない、飯もうまくない」というような、不明のエネルギーが脳内、体内に充満した状態が必要なのではないだろうか?
言うまでもないことだが、「熱中」は「勉強」などというプロセスで生まれるものではない。「好き」であることが必要条件になる。人間は「好き」である、または「興味がわく」こと以外に「熱中」などできないのである。そしてそこには、時間割りも強制もない。ただ、創造者本人の意思と可能性があるだけである。
要するに、何らかの「課題」「問題」「願望」を見つけた個人、あるいは集団が、その解決のために熱を持ち、そのエネルギーでもって脳細胞を刺激し、貯えられた脳内の情報を組み合わせて、新たな価値を作り出す行為が「創造」であると思うのである。
結局、創造者に求められるのは何かというと、あることに対する「熱中」「夢中」「集中」であり、そのことが「好き」であり、そして、そのエネルギーを具現化するための手段手法は何でもよく、加えてそのことに何の興味もない普通の人間なら絶対つなぎ合わせることのない情報をつなぎ合わせて新たな価値を提示、発見、発明することができる能力であると思う。
さらに言わせてもらえば、人生は確かに苦に満ちているのであるが、人間はこの「熱中」「夢中」「集中」している瞬間においては、苦を忘れられるのではないか?人間はこの瞬間を味わうために存在しているのではないか?創造することこそが、人生を生きる意味ではないか?とさえ、私は思うのである。
創造の観点における「教育」と「老後」
今の学校教育は、子供に情報のブロックをたくさん持たせることに重きを置いているような気がする。たしかに「創造」するためには情報のブロックがたくさんあったほうが有利だが、しかしそれはあくまで「準備運動」であり、主目的はそのブロックをどう組み合わせて新たな「作品」を作り上げるかである。
ブロックの新たな組み合わせは「楽しい」「想像」を思いっきり膨らませ、「熱中」「夢中」「集中」の状態を作り出すことによって生み出されるものである。にもかかわらず、学校教育が情報ブロックを頭に詰め込むことだけに集中して、さらにその確認テストをしたりすることによって、「詰め込むこと」の誤った価値の刷り込みを行い、「面白くない」「記憶」を否応なく蓄積させ、幼い脳をどんどん疲弊させているのであれば大問題であると思う。
まるで強欲なハムスターのように口いっぱいにヒマワリの種を含んで物陰に運び、結局自分が埋めた場所を忘れてまたヒマワリの種を漁るような、いつの間にか「ヒマワリの種を集めること」が目的化してしまって、結局飢え死にするような「人生」を送ってしまってはいないか?
人生のすべてにおいて情報収集に明け暮れ、誰かが決めたレールに沿って生きて、やがてそのレールの終着駅で方向性を見失い、絶望の老後を送る今の日本人は果たして「幸せ」といえるのか?
せっかく定年になったのだから、今まで貯えた情報のブロックを使って思う存分「熱中」「夢中」「集中」のエネルギーを燃やして、なんらかの新たな「創造」物を残して死んでいける日本人はどれだけいるだろうか?
私は「創造」とは若者の特権とは思っていない。上述の日本創造学会もまた、「創造的人間」あるいは「創造性の発達」の研究対象から「高齢者」は除外していないようである。
これから老後を迎える人間は、それまで貯えてきた情報のブロックの新たな組み合わせを「夢中」になって開拓し、若い人たちを含めたこの世の中に新たな価値を提供していけるような活動を行うべきと思っている。決して「老害」などという誹りを甘受したり、社会的弱者として「扶養」される立場に甘んじたりすべきではないと思うのである。今すぐには無理でも、徐々にそのように世界を変えていくべきと思うのである。