なぜ死という最悪の結論を選択するか?
昨日、俳優の三浦春馬氏が自殺したというショッキングなニュースが舞い込んできた。うちの娘も彼のファンだっただけに我が家でも大騒ぎである。本当に今年は有名人がたくさん死ぬ年である。
無差別に人を殺す人も自分で死ぬ人も、生前は「そんな人じゃなかった」と言われることが多いのはなぜか?それはつまり、どんな人間も生まれたときから殺人衝動や自殺願望を持っているわけではないということだと思う。むしろそのように急変する人こそ、前向きに人生を送ろうと思っていたはずなのである。それがどうしてこんなことになってしまうのか、普通の人は全く理解に苦しむ。
無差別の人殺しや自殺を決意する瞬間、その人は大いに絶望しているのだと思う。この世界に希望を失うからこの世界から脱出したいと思うのである。普通、自分の中に希望が無数にあれば、絶望という判断はあり得ない。一つの希望が消えても、また別の希望に向かって進めばいいだけのことである。
でもある種のまじめな人は、人生には万人に共通する絶対的な生きる意味が一つしかないと思っているから、「希望」は一つの道しかないと思いがちであるのだと思う。そして「絶望」するのである。そのうえで、死ぬ勇気もない人は死刑を望むし、自分で死ぬ勇気のある人は自殺するのである。
絶対的な存在を認めた時点で人間は不自由になる。
あるいは普通にまじめな人は、人生に生きる意味があるからこそ、きっとそれを決めた神が存在しているはずであり、それに背くことは絶対に許されないと思い込むのかもしれない。そして自分がその神に背くような生き方しかできない、あるいは自分の周りの環境が、その神の意向に沿っているとは思えない状況だと認識した場合、「破滅」を選択するのだと思う。
まじめな人間がこう考えるのはもっともだと思うが、普通の人はそこまでまじめに考えず、「まあ、多少の不条理はあっても、神様が何とかしてくれるだろう」とか「そんな甘いこと言ってるからダメなんだ。世の中厳しいんだから、対応しなくちゃいけないんだ」とかある意味浅い理屈と論理矛盾の自己正当化で現状肯定して生きているので、絶望の後に極端な破滅が来ることを理解できない。
普通に、神を万能と想定して、とにかく難しいことは考えずに、自分に与えられた環境の中で、幸せを感じながら生きていける人はいいのだが、神に応える生き方しかできないような人は不幸である。神の意志に反する生き方は、彼らにとっては破滅を意味するのだ。
私は神がいない証拠は、まさしくここにあると思う。自殺したり、殺人を犯そうと決断した人間の前に、神は姿を現さないのである。なぜか?神がいるとすれば、そして神に存在価値があるとすれば、こういう時にこそ、何らかの「啓示」を与えるべきではないのか?
その答えは、私はもともとそんなものいないからであると思っている。そう考えるとわかりやすいし、そう考えないと、いったい神をどのように信じればいいのかわからない。神などいないから、人は「殺せる」し、「死ねる」のである。同時に、神がいると思うから「殺したり」「死んだり」するのであると思う。※私は神はいないと考えるという記事はこちら。
もともと存在しない神などあてにせず、人生に意味ありきで考えるのでもなく、生きる意味などない人生の意味は自分で決めて、自分で意味を作っていくのだと決心すれば、「殺したり」「死んだり」する選択肢はありえなくなる。それこそ、「殺したり」「死んだり」することに意味がなくなるからだ。自ら自分の人生に意味をなくそうと決断しない限り、人殺しや自殺が、自分の人生の生き方の選択肢に上がることはないはずなのである。
すくなくともそのようになれば、自ら自分の人生の意味をなくすという決断をするまでの時点でかなり心身がまいっているはずなので、周りの人が自分の異常に気付いてくれるだろう。少なくとも、昨日まで全く「普通」に人生を送っていた人間が、急に狂気にとらわれることはないはずである。とても自然に近い生き方、自由な生き方ができるはずだと思うのである。
人生を狂わせるものは、ありもしない意味を勝手に作り上げて、それに夢中になりすぎることである。従うべきは自分の素直な心であり、自分の作り上げたルールであり、自分が大切にしたい人生の意味である。それ以外に何も信じるに足るものはこの世に存在しない。あまりはっきり見えないものは無理に見ようとしない方がいいと思うのである。