勝ち組の意味するところとは?
人生において勝ち組とはいったいどのようなものだろうか?厚生労働省の発表によれば、50歳のピーク時の平均年収は535万2,000円というデータが出ている。また、全体の7割が一生平社員で会社員生活が終わるとも言われている。これは実際のところ、私は一流と言われている企業にいたので、年収はもう少しだけ高かったが、平というか係長で会社員生活を終了した。社会全体で言えばそうでもないが、会社の中では完全に負け組である。
しかし、勝つとか負けるとかいう場合、通常は敵の存在があるはずである。何かと比較して勝った負けたというのだと思う。では「人生の勝ち組」って何と比較しているのだろうか?
この疑問に明確に答えることのできる人はいないと思う。つまり、普通は人生の勝ち組負け組とかいう場合、いったい何に対して勝った負けたを言っているのかよく考えずに言うことがほとんどなのである。
実際の場面においては、例えば同窓会などに出席したシチュエーションにおいて、幼馴染たちより裕福な生活をしていれば「勝ち組」ということができ、おそらく彼らにうらやましがられるので「いい気分」になれるのだろう。
たしかにそれは、人生において「いい経験」と言えるだろうが、しかしそのような称賛を得られるのは人生においてどれくらいの時間だろうか?おそらく人生100年において、そのような「いい気分」になれるのは、ほんの数年で、人生のほとんどの時間は自分や自分の家族と向き合う時間なので、「いい気分」になどなれないだろう。
そのように考えてくると、ほんの短い間「他人の称賛、羨望」を得るために自分の人生の大半を無駄遣いするなんて本当にばかばかしいことがわかる。
自分の人生を自分のために生きている人は、人生の勝ち組負け組なんて発想自体ないだろう。「いい生活」なんて、あの世に持っていけないからだ。
人生の本当の勝ち組に入る価値とは?
もしも無理やり人生に勝ち負けを考えるならどうなるだろうか?おそらく自分以外の何かを設定して勝ち負けを決めてもむなしいだけなので、勝ったり負けたりする相手は自分自身に設定すべきだと思う。
そのように考えれば、やはり人生の勝ち負けとは「生きてよかった」「生まれてよかった」と思えるかどうかだ。終わりよければすべてよしだ。しかもそれは他人との比較ではなく、「自分で」それがいいと思えるかどうかだ。
本当に承認欲求なんてくだらない荷物を持たせてくれたものだ。承認欲求がなぜ人間にあるかというと、人間は一人で生きていけないので、社会に属する必要があり、その社会で勝手なふるまいをして、社会を混乱させないように、社会に役立つ存在になるように承認欲求が備わっているという考え方があるらしい。
要するに承認欲求の低い個体は社会に貢献しないことが多いので、社会から爪弾きにされ、孤独に絶滅したということである。
しかし、人類はこの承認欲求を「不快」ととらえていたからこそ、こんな窮屈なものがなくても生きていけるように社会文明を発達させてきたはずだ。つまり、できるだけ一人でも生きていけるように「自由」な社会を作り上げてきたはずなのだ。
「貨幣制度」もその仕組みを機能させるための権利行使券だろう。自由にものを獲得できるようにするために考え出された仕組みであったはずだ。決して、権力や名誉を示すものではなかったはずである。そんなものは死なない程度にあつめればいい。年収の多寡で勝った負けたなんてくだらない。
でもどうしてこうも、お金が脳裏から離れないのだろうか?それはお金に付随する様々なまやかしにとらわれすぎているからだろう。やはり物事の表面的な事象に振り回されるのではなく、そのものの本質を見極めて、本当に大切なものを大切にする人生を送れる自分になること、そしてそんな周りを気にするが故に本質の見えなくなった自分に打ち勝つこと、それこそが、真の人生の「勝ち組」なのかもしれない。