時代の変化を無視するとバカにしかなれない。
ツイッターである話題が沸騰しているらしい。スーパーの総菜コーナーでポテサラ(ポテトサラダ)を買おうとした若い母娘に老人の男性が「(愛情があるなら)ポテサラくらい自分で作って食わせろ!」と言って物議を醸しているらしい。
テレビのワイドショーを見る限り、今時手作りのポテサラくらいで愛情を感じるのは間違っているという論調だが、私は反対である。ポテサラを作って食べさせるのは十分に優れた愛情行為と思うし、もしポテサラを作ってくれたら、その人にありがとうと感謝の意を表すべきだと思う。ではこの老人は正しいことをしたのかというと、そうは思わない。アホだと思う(笑)。
私の考える、本件における私なりの解釈はこうだ。今時食品の保存方法も進化して、総菜のメニューも充実してきており、料理をする時間、総菜に支払うお金を節約して別のことに向けることもできるのに、わざわざ自分の時間とお金を消費してポテサラを作って食べさせてくれることは、大いなる愛情行為だ。感謝すべきである。しかし、ポテサラを作らず、それで空いた時間やお金を優しい会話や、その他の愛情行為に振り向けてくれるなら、それも感謝すべきだ。この爺さんが間違っているのは、「ポテサラを作る=愛情行為」と判断していることではなくて、「ポテサラを作らない=愛情行為ではない=悪いことである」と判断しているところだ。だから、この老人をアホだと思うのである。
結局、普通の人はオールオアナッシングなので嫌になる。生きにくい世の中だ。多様性は、日本においてはいつまでも広まらない気がする。そもそもこの爺さんは、私が会社に入社した時の部長くらいの世代だと思うので、たぶん、「単純」だ。日本がまだ高度成長を経験していた時代の人間なので、世の中に「真実は一つ」の世代で、平均が正解の考え方なのだ。こんな親父が全部ではないが、まだいるということに辟易するし、自分はそうはなりたくないと思う。彼らよりは、知能も生活態度も「進化」していると思いたい。
優秀であることの意味は何か?
昔はみんなと同じことをみんなと同じように続けることができることが「優秀」とされた。したがって、今や、優劣の差なんてほとんどない。優劣の差なんてなくてもいいが、個性の差すらなくなってしまっていることが嘆かわしい。このことは、結局生活に閉塞感を生み、かといって革新的なアイデアも出ないので、差別やいじめが蔓延する。そうすることによって、何も変わらないことに対する不満を紛らせながら生きる社会になってしまっているのだ。私は、いじめる人間はいじめられる人間に対して、深層心理的には、革命を起こすことを期待しているのではないかと思うほどである。
赤でも青でもない黄信号の存在、酸性でもアルカリ性でもない中性の存在、夏でも冬でもない春の存在、そういった、中間の存在にもっと目を向けるべきだと思う。中間とは平均ではない。平均は一つに決まるが、私言う中間は無数にある。極端の端を見るのではなく、中間。無数の多様性を認識し、認め合う世の中にならないと、いつまでたっても差別やいじめはなくならないと思う。
考えてみれば、私が社会人になった当初は、今とは比べ物にならないくらい凡庸で、つまらない世の中であったと思う。今から思えば、よくあんな社会に疑問を持たず(本質的ではない疑問は持っていたが)、生きてこれたものだと思う。今後も変化に対応することを恐れず、「頭の悪くない」老人を目指したいと思う。