バズるの使われ方とは?
「バズる」とは、「現在、ネット等で爆発的に話題になっている、あるいは注目されている」という意味だそうだ。例えば、ネット上で特定の話題が爆発的に広まっている状態を「バズる」という。英語のハチがぶんぶんと飛び回るとか、ひとつの場所に集まって噂話でざわざわするとかいう意味の「Buzz」が語源のようである。
使い方は、例えば、「タピオカめっちゃバズってたよね!」という風に使うらしい。要するに昔「目立っている」、「流行っている」という言葉を使っていたが、その言葉に置き換えて使えば、ほぼ間違いはないようである。
このようにバズるとは、流行のことで、生きていく上では重要なキーワードになりえると思う。
もしも、「普通」に生きていくのであれば、大概どこの世界でも、日本では特に「出る杭は打たれる」ので、むしろ「バズらない」ように気を付けて生きていかなければいけない。大衆に埋もれ、特定の上司にのみ「認められて」上昇していくことを目指すなら、周りに余計な気を使わなくて済むように、みんなの中では「バズったり」しないように細心の注意が必要なのである。
なぜなら、歴史も長く、マニュアルもきちんと整備され、誰がやっても同じような結果しか出ない大企業や老舗企業では、もし同僚や時に先輩などの妬みを買ってしまえば、そこで生きていくには余計な能力を必要とするからである。つまり、単に上司に気に入られるという「くすぐり」能力のほかに、自分の真意をカモフラージュして敵意を逸らすというような「すりかえ」能力も発揮せねばならず、大変しんどいことになるのである。自分に対して嘘に嘘を重ねる人生を送るという、大変な努力に対して得られる報酬が「普通に出世」という何ともしょーもない結果になりかねないからである。だから、「普通に」生きていく上では、バズらないように気を付けることは重要な処世術の一つなのである。
しかしもしも、「普通」に生きることをあきらめて、「自由」に生きていく場合は、この「バズる」ということは逆にとても重要なファクターになる。程度の大小は別にして、まったくバズらずに「自由」に生きていくことは不可能である。
「普通」に会社勤めをして、給料をもらうことを目的に生きるのではなく、例えば「タピオカ」ドリンクを販売して生きていこうなんて決めれば、上記の使用例のように「タピオカめっちゃバズってたよね!」という現象を起こさなければ、生きてはいけない。少なくとも自分の店に通ってくれるお客さんだけでも、そのように思ってくれなければ、「仕事」として成立しないのである。
自営業などの場合は大企業や老舗企業とは違って、世の中にある「完成された」ものを変わらず提供することによって生きていくこととは違うので、そこで働く人間は、店長だろうが店員だろうが「バズる」ことを目標にしているのである。バズらないことを目標にしているような店員は、その店が小さければ小さいほど、いらない人になるだろう。だからこそ、相手が有名芸能人であっても「バズり」を邪魔するものは容赦しないし、「バズる」ことから外れることは、拒否するのである。
バズると炎上の違いとは?
因みに「バズる」ことと、「炎上」することは違うのである。「バズる」ことは、人に役に立つことを目的とした好感度の高い情報なのに対して、「炎上」することは、特定の個人や企業の批判を目的とした好感度を下げる情報である。
つまり、「炎上」でも一時的に客は集まるだろうが、基本的に好感度を下げる情報で人を集めているので効果は長続きしないのである。だからこそ、自営業の場合は、相手が芸能人であっても誰であっても、自分の店や商品の好感度、評判を下げる行為には「命がけ」で挑むのである。そこが、大企業、老舗企業などの「炎上」を避ける集団、嫌がる集団との大きな違いになる。炎上を嫌がる集団は、相手が芸能人のような影響力のある相手であれば、「事なかれ主義」に走り、訴訟などせず金で済まそうとするが、バズることを好み、炎上を嫌う集団は、「信用至上主義」に走り、相手が誰であろうが「炎上」させる相手を「潰す」のである。
このように、もしも個人で実力で生きていくなら、バズることを目標に、前向きに生きていかなければならないのである。そして一度バズれば、商品にもよるが、ほぼ五年から十年くらいは(贅沢しなければ)何とか生きていけるようである。したがって20代で起業、自営をするなら、仮に80歳まで現役でやるとして、すくなくとも5、6回はバズらないといけない計算になる。
しかし、50代まで社畜をやって、その後独立した場合は、1、2回バズればあとの人生は十分に過ごせるのである。一発屋上等なのである。やってやれないことはないはずである。大切なことは価値観の転換だ。それまでは「バズらない」「目立たない」ことを目標にやってきたが、今後は「バズること」、人の役に立つこと、自分に嘘をつかず、自分が本当に楽しめることをまじめにやることに、どれだけ「本気」になれるかどうかがカギになるのである。