テレワークと成果主義
今コロナウィルス感染症対策の関係で、各企業、テレワークの導入、推進に力を入れている。テレワークとは何かというと、ICT(情報通信技術)を利用し、時間や場所を有効に活用できる柔軟な働き方のことである。そしてその効果としては、
①少子高齢化対策の推進
②ワーク・ライフ・バランスの実現
③地域活性化の推進
④環境負荷軽減
⑤有能・多様な人材の確保生産性の向上
⑥営業効率の向上・顧客満足度の向上
⑦コスト削減
⑧非常災害時の事業継続を掲げている。
※総務省ホームページ テレワークの意義・効果 より
一方で、「平成29年通信利用動向調査」によれば、企業がテレワークを導入しない理由は、
①「テレワークに適した仕事が無いから」
②「情報漏えいが心配だから」
③「業務の進行が難しいから」
④「社内のコミュニケーションに支障があるから」
⑤「導入するメリットがよくわからない」
等が挙げられている。
※総務省ホームページ テレワークの動向と課題についてより
この③「業務の進行が難しいから」という課題について、要するにわかりやすく言うと、「サボってるのではないか?」という確認ができないということらしい。したがって、このサボり防止に、各企業、自動チェックできるソフトを導入したり、パソコン画面から顔が消えるとアラームを出したりして、サボりを未然に確認する作業を追加しているところもあるらしい。
中には、「従業員の人権を軽視、無視しているような」ケースもあり、問題になっている企業もあるらしい。私の勤めていた某一流企業も、業務開始と業務終了時に上司にメールをさせるルールがあった。しかしこれはザル法で、メールの自動送信機能を使えば外出していても問題はなかったし、ましてや毎日テレビ会議をするようなというようなクソみたいなルールはさすがになかった。したがって、社畜にとっては、自由を満喫できるしくみで、人によれば、実際は仕事はサボり放題であったかもしれない。
そもそも、このサボりチェックをしなければいけないとはどういうことなのか?テレワークが適用されるのは主に間接事務職であり、本来、特に間接業務というのは、「成果」を出せば、いつ何をするかは個人の裁量に任されている部分が大きいのである。逆にそうでなくてはならない。なぜなら、工場のライン業務のように、「効率」しかない業務に比べ、企業の間接業務というのは「臨機応変」な対応は当然なのである。
従って、上司は職場で、部下がサボっていないかを「監督」することが重要な任務になっており、また、そのことが、何も考えていない社畜にとっては、部下に対する優越感の一つにもなっているのである。にもかかわらず、部下が目の届かないところに行ってしまえば、目に見えないところで何をしているかわからないという不安から、サボりをチェックしたくなるのである。(要するに仕事がわかっていない無能社畜上司が多いということだ。)
だからこそ、「成果主義」という人事評価制度が一時期流行った。ただ管理監督をするというだけで高給を取っている無能社畜上司に対する、これまたただ言われたことだけをやることに生きがいを感じ、上司の機嫌を取ることに精を出す無能部下集団のストレスのはけ口として、受け入れられたのかもしれない。
この成果主義という幻想から、テレワークというか、仕事を家に持ち帰ってやる、あるいは出勤しないで家で仕事をするというサラリーマンが増えた。
ところが、2000年前後に一世を風靡したこの成果主義だが、短期間に見直しを迫られたのは、社員の不満や不公平感が想像以上に大きかったことが主な理由だった。欧米企業と違って、日本企業では一人ひとりの仕事の分担は明確でなく、課や係といった集団単位の仕事がかなりの比重を占めている。そのため一人ひとりの「成果」を正しく評価することが難しい。にもかかわらず非管理職まで「成果」によって評価し、処遇に差をつけようとすると無理が生じ、不満や不公平感が生まれる。それが社員の意欲やパフォーマンスの低下にもつながる。この結果、今や純粋な?「成果主義」を採用し続けている企業は少なく、人事評価制度は迷走を続けているのである。
滅びゆく「成果主義」と新たな人事評価制度の必要性
「成果主義」というのは、理念としては誰でも賛成すると思う。ところが、実際に「見える」成果でもって給与に差をつけると、途端に「不公平」になるのである。なぜなら、そもそも間接業務の仕事(ex.人事、経理、総務、そして研究開発もしかりと思う)って目に見えない仕事にこそ価値があるからである。家事でいえば、最近よく言われるように「名前のついていない家事」こそが重要なのである。
上記の③「業務の進行が難しいから」という理由でテレワークが導入できないという企業は、見えない仕事こそが重要な業務内容で、テレワークなど導入してしまったら、ますます上司は部下の仕事が見えなくなるではないか、ますます本来の「成果主義」とかけ離れた評価しか行われないのではないかという理屈なのである。
この課題に対する私の答えは簡単である。サラリーマンの「やりがい」なんていう幻想を捨てればいいのである。サラリーマンとは社畜なのであるから、餌をもらえればOKと割り切ればいいのである。人生において「仕事」にやりがいを感じたいのであれば、今時、「起業」して経営者にでもなるしかないと思うのだ。その道をあきらめ、サラリーマンになると決めた時点で、「仕事」にやりがいなど求めず、人生の意味を「仕事以外の何か」に決めて、自分なりの人生の生きがいを見つけるべきなのである。そしてその生きがいは人それぞれ違っていいし、なんでもいいのである。言われてやる「仕事」などに「やりがい」や「いきがい」を求めてはいけないし、正当な評価など期待してはいけないのである。
高度成長時代のサラリーマンじゃあるまいし、頑張れば頑張っただけ報酬がもらえる時代はもう終わったのだ。今の時代、頑張っても頑張らなくても上司に気に入られなければ、給料は増えない。すくなくとも、そんな奴隷社会をつぶすために、サラリーマンの仕事は一律同じ給料でいいと思う。やることをやれば、上司に気に入られようが気に入られまいが、給料は同じというのが、実は最も「公平」なのだ。
もしも、そんな無味乾燥な人生が嫌で、何かで突き抜けたければ、「雇われ」から「雇う」側に回るしかないのだ。言われたとおりに仕事をするのではなく、自分がすべき仕事を自ら進んでするのである。そうしなければ、突き抜けられない社会でいいと思う。というか、もうそんな社会になっているのに、いまだに会社に「やりがい」と「公平感」を要求するからややこしくなるのだと思う。
そもそも、高度経済成長時代においても、仕事の本質論なんて十分には議論されてなかったし、公平性なんて確保されていなかったのだ。「残業」をすればその分きっちり「残業代」が支払われたし、社員の頑張りは「残業」と「会社を簡単にやめない忠誠心」で測られていたのだ。それが今、残業代や通常の給料でさえ、支払う体力が会社に無くなってしまったのだ。だから残業代という「餌」もないまま馬車馬のように走らされれば、それは当然、死ぬ馬も出てくるわけである。会社がこんな糞になれば、もう会社員は働くモチベーションなんてどこにもなくなって当然なのだ。
つまり、もう経営者も労働者も現実から目をそらさず、「サラリーマンは社畜になってもらいますけど何か?」でいいと思う。それが嫌なら、「起業しろ」だ。
そして経営者は、自分が今偉そうに使っている従業員を間違って目覚めさせてしまえば、明日独立されて、自分の首を掻き切られるかもしれない恐怖の中にいることを真剣に自覚するべきなのである。今の日本の経済の閉塞感は、創業者であろうとなかろうと企業のトップの経営推進の怠慢であることは間違いがない。もっと従業員を大切にして、自分の味方につける経営態度を培わなければいけない。現代ほど「総力」を発揮できるリーダーシップが求められている時代はないと思う。
少なくとも、経営者や経営幹部が、従業員が「サボってないか」なんて上から目線で付き合っているうちは、いつでも敵軍へ寝返られるぞということだ。
昔のように頑張ったらお小遣いたくさんあげるねというような、親のような経営者になれない以上、必要以上の人間関係は、今の日本企業内に必要ないと思う。ドラステックにテレワークを推進し、「仕事」を明確化し、そのかわり給与はみんなほとんど変わらないでOKだ。
そもそも成果主義といえば欧米企業をイメージしがちだが、それは必ずしも正しくない。たしかに管理職、とりわけ幹部クラスになると成果をあげれば日本企業とは桁違いに高い報酬が与えられる。しかし非管理職の場合、意外にも査定によって処遇に差をつけているところは少ない。職務主義のもとでは、基本的に職務を遂行しているか、役割を果たせているかどうかだけが厳しく問われるのである。
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO5927369019052020000000?page=2
まあ、私の極論はさておき、とにかく今回のコロナをきっかけとして始まったテレワークの導入を機に、本来あるべき仕事の評価、そして仕事のやりがいとは何かを、経営者、労働者が本音で話し合う時代に来たことだけは間違いなさそうだ。その「やりがい」みたいなものを従業員と共有できた経営者のみが勝ち組に残るのだろうと思う。
[…] ワークが普及し、社員同士のつながりは希薄になり、副業、副職は当たり前になる時代が来ると思われ、社員が自立する機会に恵まれるからである。※テレワークに関する記事はこちら。 […]