いじめの構造と対応についての考察
なぜいじめが起こるかは、結局のところ、生き方が大げさだからだと思う。つまり、「人生」に大きな価値があると思い込んでいるから、自分の生き方に不安になり、他人の生き方が気になり、自分との違いに不安になり、他人を自分にあわさせようとするからだと思う。要するに、人生における不安がいじめを引き起こしているのだと思う。
やっかいなのは、この「不安」をいじめる側が認識していないことだ。もともと原因はいじめる本人の中にあるのに、それをすり替えて弱い人間のある部分のせいにして、自分の不安を隠蔽してしまうことにある。いじめられる側は、いじめられる原因はもともと自分にはないのだから、何をどう対処してもいつまでたってもいじめは止まないことになる。
さらに、このいじめを行っている人間に対して、別の人間がそのいじめを批判しても、そもそもいじめている側にとって、「悪いことしている(いじめている)」認識はなく、ただ、自分の中の「不安」から逃避しているだけなのだから、その批判を素直に受け止められるわけもなく、したがって、その別の人間さえもいじめの対象にしてしまうのだ。
つまり、このいじめをする人間のいじめをやめさせるには、そのいじめる人間の中にある「不安」を解消してやるしかない。最初に述べたように、その「不安」は人生に大きな価値(意味)を感じてしまっているから起こるのであるから、「人生に生きる意味はない」ということを知らしめれば、いじめは終わると思う。
ところが、このいじめをする人間というのは、そもそもこの大した意味のない人生において、他人をうらやんだり、妬んだり、恨んだりすることに全くなんの意味もないことに気づけないほど、「必死に生きている」「滑稽なほど真面目に生きている」人間なので、他人から「もっと肩の力抜いて生きて行けよ」と言われても、理解できるはずはない。いじめをする人間に何かを言って聞かせて理解させることなど絶望的である。
したがって、これはもう、いじめられている人間自身が、「人生に生きる意味はない」ということを、心の底から認識するしかないと思う。どうせいつかは死ぬのである。ならば「自分」を精いっぱい生きよう。そのためなら、他人がどうであろうと気にしている暇はないはずだ。つまり、いじめに必死になっているやつなど、「無視」して、「無価値」であることをこちらから態度で示して自分を生きていこう。そう心に決めるしかないと思う。そして、それを邪魔するなら戦うしかないと思う。かわいそうだが、告訴でも通報でも何でもして、あるいは「正当防衛」をしてでも、いじめられている人間の方こそ、「自分」を生きる努力をすべきと思う。
実際のところ、ほぼすべてのいじめ事件は、いじめる側いじめられる側双方とも、「生きることに盲目的」になりすぎて、一番大切なものを見失ってしまっているからどんどんこんがらがっていくのだと思う。