決定論という考え方の本質とは?
決定論という考え方がある。端的に言うとこの世界はすべて物理法則に支配されているので、すべての現象は物理法則で説明できる。すなわち、未来は過去の要因によって既に決まっているという考え方である。
これを拡大解釈して「未来はもう決まっているのだから、もう何をやっても無駄だ」という人がいる。このことは、たくさんの人々の人生において、思うようにならないことの方が、思い通りになることよりはるかに多いので、強力な説得力を持って人々の心に迫ってくる。
このように考えると、人生に夢を持つなんて馬鹿げた行為だ、どうせ未来はもう決まっているのだから、「運命」に逆らわず、大人しく生きていけばいいという理屈になるし、死にたきゃ死ねば?殺したきゃ殺せば?どうせみんな過去に決まってたことなんだからどうしようもないよという虚無主義になる。
「人生に生きる意味はない」ということを受け入れられる人間ならこの虚無主義も理解できるだろう。しかし、「ないなら作ろう」「作り出すことが、有意味の世界に生まれた人間の使命だ」ということも受け入れられるのであれば、単純な虚無主義は受け入れられなくなるだろう。
作り出す喜び、すなわち自由の本質を受け入れられる人は、虚無主義などつまらないはずである。単純に「面白くない」ので、容易に受け入れられないのである。というか、虚無主義の主張を盾にとって、何もないなら作ったっていいでしょ?どうせ何もないんだから、作ってはいけないというルールもないはずでしょ?だから虚無主義であってもなくても「なにもない」のだからほっといてくれ!っていう理屈になるのである。
決定論と「夢」の人生における意味
人間はなぜ生きているかわからない。でも生きてるんだから、とりあえずわかってることを積みあげて、この世界を理解することから始めよう、そのように始まったのが「科学」であるとするなら、実は科学はまだ始まったばかりで、この世界の謎すらすべてを解き明かしているわけではないのである。ましてや、人間はなぜ生きなければいけないのかなんて言う命題に科学が答えるのはまだずいぶん先の話で、とりあえず今のところは、そんな「哲学的」な疑問は、「(実証)科学」は横に置いているのである。
従って、現代のこの不完全な「科学」をその根拠とする決定論は信じるに値しない。しかしかといって、決定論に変わる完璧な理論もないので、決定論を完全否定することもできない。
であれば、ひょっとしたら、未来は変えられないかもしれないが、とりあえず変えられるものとして「夢」見て生きていこう。そうすれば生きる意味のない人生に意味をつけることができそうだ。「夢」に向かって生きていけば、とりあえず「意味」みたいなものが作れそうだ。このように考えるべきではないのか?
つまり、人生に生きる意味はないが、しかしその絶望からすべてを放棄し「何かに従う」だけの本当に無意味な人生から人類を救う救世主が、人間だけが持つことのできる「夢」なのではないか。「夢」自体には何の意味もないのかもしれないが、意味のない人生を生きることを強いられている我々人間に残された、最後の「自由」が「夢」を見ることではないのか?ということである。
要するに私は、人生を生きるにあたって、夢をもって生きた方が、持たずに生きるよりは楽しいだろうし、楽になるだろうと思うのである。