じょじょ日記

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人生論

言葉とは?その意味、本質、使い方

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言葉の意味とは?

言葉とは一般的に意味を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。と解される。意味をあらわすことができなければ、何も伝わらないし、何も伝わらない人生は孤独でさみしいものである。

また、話は変わるが、ベンジャミン・リベットの実験結果より、「自由意思は幻想である」とも言われている。※ベンジャミンリベットについてのWikipediaはこちら

この実験を科学者でもない私が簡単に説明すると、ボタンを押す、指を曲げるという行動における脳の反応を調べてみると、ボタンを押す(つまり指を曲げようと「思う」)前に脳がすでに反応していることが観察された。したがって自由意思(つまり自分が指を曲げようと思って指を曲げた)は幻想であり、実際はすでに行動は決まっているのであるというのが、「因果律による決定論者の『自由意思幻想論』」である。自由意思が幻想かそうでないかはここでの主な議論ではないので、その議論はやめるが、この実験が示唆することは非常に興味深いと思う。

赤ん坊を考えてみるとき、彼はまだ「言葉」を話すことができない。しかし、彼は、明らかに「意思」のようなものをもって行動しているように見える。それは、「本能」という、ある意味科学的な、決定論的な行動も含まれると思うが、必ずしも「本能」的行動とも言えない行動もしていることは確かだと思う。

例えばまさしく、「指を曲げる」という遊びを考えるとする。遊びをするのも一種の「本能」に基づくものと言えるかもしれないが、一方で彼が自由意思によって指を曲げたかもしれないことも否定はできないであろう。もし、彼が自分の自由意思で指を曲げたのであれば、言葉を知らない彼は言葉で「意思」を確認することなく、言葉にならない「自由意思」で活動を始めていると思われる。

要するに、ベンジャミン・リベットの実験において「ボタンを押す」と脳が認識した時点を「自由意思」が発動した時点ととらえるのではなく、それ以前に脳が反応した、「意味不明な反応」こそが言葉を超えた自由意思の発動時点と解釈すれば、自由意思の存在余地はあると思う。

しかし自由意思の有無自体は、私のような門外漢が論じても説得力はないのでどうでもいいとして、ここで言いたいことは、言葉以前にもまず「意思」は存在しているはずだということである。

言葉の本質とその使い方とは?

言葉とは「意思」の後付けの言い訳であり、「まずはじめに言葉ありき」ではなく、「まずはじめに意思ありき」なのである。

何か意思がない限り、そこに意味はないのである。つまり、この世界のすべての物事が「意思」に全く無関係でそこに存在し、時間によって流されていくだけなら、その世界に存在する意味は何もないということである。

なぜなら「意思」なきところに「感情」はなく、「感情」なきところに「精神」はなく「精神」なきところに「無」はないからである。

有限の世界でただあるがままに存在しているだけの存在に、「無」を「意識」する意味はないないからである。無が無意味なので、無はないと言えるのである。

わかりにくければ、「意思」は存在し、「意思」によって「意味」は作られ、「意味」によって、自分が規定されるということを「信じれば」よいのである。

よく「生かされている」と人生の喜びを表現する人がいるが、それは「自分が何も考えなくても自分の思い通りに人生が進んでいく」という消極的な意味ではなく、自分が考える「意味」を追い求めて自分で意味付けていく人生も、むしろ「意味」によって自分の人生が価値付けられていく、すなわち「生かされている」という実感を表現したものであると思うのである。

いいかえれば、意味、意思を表現できる言葉があるからこそ、私たちは生きていると実感できるのである。まさしく言葉とは「意味を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。」ということができる。

そして言葉によって表す意味が深ければ深いほど、言葉はよい人生をもたらしてくれると言える。言葉によって表す意味とは「意思」の表現であるから、自分のなかの深い「意思」を表現できればできるほど、人間は幸福感を味わえるからである。

そしてその「深い意思」を共有できる人間がそばにいれば、幸福に包まれた人生を送れることになる。

例を挙げて言うと、例えば好きな人と一緒にいて、その人と幸せになりたい場合、時にその人から自分の望まない言葉を発せられることがある。その時に、たいていは怒りの感情が沸き起こるだろう。

「自分はあなたのことがこんなに好きなのに、なぜあなたはそんなことを言うのか。けしからんじゃないか!」という具合である。

しかしこの時、もし自分の中の「仲良くしたい」という「深い意思」に気づいたらどうなるだろうか?相手を責めるのではなく、相手のいうことを聞き入れながら、こちらの感情に気づいてもらえるような「言葉」を選んで発するだろう。

このことは、必ずしも「好きな相手に媚びて、自分の人生を棒に振る」ことを意味しない。なぜなら、自分の「深い意思」に基づいて発した言葉なので、その「意味」が伝わらない相手を「大切」とは思わなくなるからである。

共依存の関係に陥りやすい人というのは、結局のところ、言葉を「意味を伝える道具」として使いこなせていないのだと思う。「意思」のない人には伝えたい「意味」もないので、本来の「言葉」は使えないものであると思う。「意思」を強く持って、伝えたい意味をはっきりと正確に伝える努力が、幸せになる秘訣だと思うのである。

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